澪標 16
彩子がZoomで話したいと連絡してきたのは、木々が色づいた晩秋だった。
「すーちゃん、久しぶり!」
画面の向こうの彩子は、しばらく会わないうちに、かなり髪が伸び、ますます綺麗になっていた。
「久しぶりだね、彩子! 元気だった?」
「元気、元気。本社はずっとテレワークなんだよね?」
「そう。通勤しなくなってから、太らないように、週2-3回はウォーキングしてるよ。ところで、話したいことって何?」
「うん。実は私、少し前に大和と別れたんだ」
「えっ、そうだったの! 彩子、大丈夫?」
「ありがと。大和がずっと弁護士の女性と二股かけてたことがわかったの。彼女と結婚するんだって。もう、吹っ切れた」
「うそ、大和さん、最低じゃない!!」
「生演奏の聴けるカフェで別れ話されてさ。飲み物代の1000円札をテーブルに叩きつけて、帰ってきたよ」
彩子は清々したと言いたげに笑った。意地っ張りな彩子は、辛いときほどそれを胸に押し込めて笑ってしまう。
「無理しなくていいんだよ。辛いときは、愚痴って、泣いて、発散しないと。彩子はいつも格好つけたがるんだから」
「ありがとう。でも、本当に大丈夫なの。実は、好きな人ができたの」
「そうなの? どんな人?」
「大和に別れ話されたカフェでピアノと歌の生演奏してる13歳上の男性。彼、透さんの前だと、自分を飾らなくてよくて居心地いいんだ。透さんに、大和に振られた話をしたら、いまの気持ちを込めて、歌ってみないかと言われたの。彼のピアノ伴奏で大学のときにミュージカルサークルの公演で歌った『レ・ミゼラブル』のOn my ownを歌ったら、押し込めていた悲しみを驚くほど自然に出せて、号泣しちゃった。自分でも、そんな状態になったのが不思議。でも、それで驚くほど楽になったの。それから、いろいろあって、彼のこと大好きになった」
「わあ、良かったね! 彩子は、一緒にいて無理をしてしまうような人と付き合うことが多かったから、そんなふうに自然でいられる人と出会えたと聞いて本当に嬉しいよ。付き合ってるの?」
「うん、最近ね。実は……、彼は強迫性障害という病気で苦しんでいて、治療が始まったばかりなの。私は彼のおかげで驚くほど早く失恋から立ち直れたから、いまは彼の回復を全力で支えたいと思ってる」
強迫性障害という病名が、あなたの奥様にも共通することにびくりとしたが、あなたの事情を話すわけにはいかないので口に出せなかった。
「おめでとう、彩子! 大和さんと別れた日に、彼と出会えたのって、すごく運命的。いろいろ大変かもしれないけれど、彩子が強がらないでいられる人と出会えたのが嬉しい」
「ありがと。今まで付き合ってきた人とは全く違うタイプだけど、今だから彼の良さがわかったんだと思う。コロナ禍で新しい出会いは期待できないから、この出会いを大切にして、彼と全力で向き合っていくよ」
「今度紹介してね。写真あるの?」
「写真はないけど、身長190センチで伊勢谷友介に似てるかな。モデルしてたこともあるんだって。いま、紹介するのは難しそうだけど、病気が治ったら必ず」
「わあ、すごい格好いい人じゃない!! 彩子も背が高いからお似合い。紹介してもらえるのを楽しみにしてるよ」
「うん。相手より長身になるのを気にしないでハイヒールを履けるのが嬉しい」
彩子は、ふふふと幸せそうに微笑んだ。166センチの彩子は、ハイヒールを履くと170センチを超える。颯爽と街を歩く姿がとても素敵だったことを思い出した。
「すーちゃんは、海宝課長とどうなってるの?」
「うん……。まあ、頑張るよ」
言葉を濁す私に、彩子は心底案ずるような眼差しを注いでくれた。
「くれぐれも、無理はしないでね」
「ありがとう。ところで、竹内くんの婚約の話、聞いた?」
「聞いた、聞いた!! 急展開だよね。早くコロナが収まって、3人でお祝いできるといいね」
「本当にそう思うよ!」
新型コロナウイルスがもたらした影響は、ウイルスが収束しても決してなかったことにはならない。コロナ禍で幸せを掴んだ同期2人を思うと、自分の立場が無性に悲しかった。
★
あなたが、体調不良を理由に、毎朝10時に行われる営業部のZoomミーティングを欠席した。私は仕事に集中できないほどの胸騒ぎを覚えた。何かあったに違いないと思った。
その日の夜、画面越しに見たあなたは、ぞっとするほど憔悴していた。スクリーンを通してもわかる顔色の悪さが、ただ事ではないことを物語っていた。
「妻が入院したんです」あなたは絞り出すような声で言った。
「え? いつですか?」
「昨夜、息子から妻の様子がおかしいと電話があって、すぐに駆け付けました。死んだように眠っていて、頬を叩いても、体を激しく揺すっても目を覚まさなかったんです。息子がゴミ箱に捨てられた薬の瓶を見つけて……。すぐに、救急車を呼びました。大量に飲んだようです。以前から、希死念慮が出ることは何度もあったのですが。実行したのは初めてで……」
全身ががくがくと震え、言葉を紡ごうとしても、何も出てこなかった。
「長い間、妻の病気と向き合ってきたのですが、ここまで悪くなったのは初めてで、僕も動揺しています。ここ数か月、今までになく不安が強くて、妻の神経がまいってしまったのだと思います」
「本当に大変でしたね。仕事のほうは、支障がないようにカバーしますので、何も心配しないでください。少し休みを取ったらいかがですか? 私にできることがあれば、遠慮なく言ってください」
「ありがとうございます。あなたに、こんな話を聞かせてしまい、申し訳ございません。これから、仕事のほうは、迷惑をかけることがあるかもしれませんが、どうか宜しくお願いします。妻は精神科の閉鎖病棟に入っていて、このコロナ禍で面会も叶わないので、僕と息子ができるのは必要なものを届けることだけです。だから、休暇は取得しなくても大丈夫だと思います」
あなたが見せた折り目正しさに、途轍もない距離を感じた。
「諸々が落ち着いたら、あなたに話さなくてはならないことがあります。あの荒海を見た海岸に、一緒に行っていただけませんか?」
県境を越えた移動は自粛が求められていると反論したかったが、そんなことは何も意味を成さないとわかっていた。
「わかりました」
引き延ばしても、行き着く先が同じことは、最初からわかっていた。