「どうして勉強しなくてはいけないの?」と子供に聞かれた時は
いつか生まれる子供のために、いずれ聞かれるであろう質問を今のうちに考えておきたい。「どうして勉強しなくてはいけないの?」と子供に聞かれたとして、私はどう答えてあげられるだろう。
私は勉強は嫌いでなかったが、運動は嫌いだった。特にプールの授業は大嫌いで、よく水着を忘れてサボった。プール周辺の日陰で、「どうして泳がないといけないのか」と先生を睨みつけながら考えていた。
海で泳ぐ予定もないのに、延々と泳ぎ続けて何の意味があるのだろう。この疑問を友人の吉田くんや教師に尋ねると、「楽しいじゃん」「ちゃんと授業を受けなさい」など的確な答えはなかった。ああ、明確な泳ぐ理由はないんだな、と冷めた気持ちになり、私はより頑固に授業をサボるようになった。
プールが好きだった吉田くんに「どうして勉強しなくちゃいけないんだろな」と聞かれたことがある。勉強が適度に得意だった私にとっては不思議な質問だった。そんなこと、考えたこともなかったからだ。学校は勉強をする場所なのに、なんでそんなことを疑問に思うのか不思議だった。
きっと吉田くんにとっての勉強が、私にとってのプールだったのだろう。おそらく吉田くんも私のように「なぜプールで泳がなくてはいけないんだろう?」と考えたことはなかったはずだ。
やりたくないこと、面倒なこと、面白くないことをしないといけない状況で、それを遠ざけるために「どうして?」という疑問が生じてくるのかもしれない。
どうして勉強しなくてはいけないの?どうしてプールで泳がないといけないの?どうして学校に行かなきゃならないの?
その質問に適切で、明確な理由があったとして、あの頃の自分は納得できるだろうか。プールでいえば、「溺れないように」「泳ぐのは楽しいから」「全身運動のため」「良い成績表のため」と言われても、自分の中にある「それより何よりめんどくさいねん」という気持ちには勝てない。その場では納得したようなふりをして、また夏が来れば「どうして泳がなきゃいけないんだよ」と怒っている。
それと同じように、「どうして勉強しないといけないの?」という質問の背景には、きっと明確な「勉強をしたくない理由」があるのだ。勉強したくない理由が特になかった私は、「なぜ勉強を?」と疑問に思うことはなく、プールが好きだった吉田くんも「なぜプールを?」と考えることはなかった。
だから、子供が求めているのは、それをしなくてはいけない理由ではなく、それって面倒くさいよな、という共感なのだと思う。
子供の頃、「確かにプールって面倒くさいよな。体洗うのもダルいし、何より水から上がった時の体の重さは最悪だ」と誰かに言ってもらえれば、私の怒りも少しは紛れただろう。
面倒の近くには苦手がある。私がプールで10メートル泳ぐ間に吉田くんは25メートルを泳いでいる。吉田くんが計算問題を一問解く間に、私は2問解き終えている。苦手で時間がかかるから、面倒くさいのだ。面倒だし、誰かに負けているというのは格好悪い。プライドが邪魔をして、必死に追いつこうと努力をせずに諦めてしまう。授業をサボり、なんでこんなことやらないといけないんだ、と斜に構えて腹をたてる。上手にできないことは、より人の目が気になってしまう。
斜に構えて育った私だからこそ、子供にはまっすぐ共感したい。
勉強でもプールでも、面倒くさいなというスタートの上で子供のそばに立ち、そこから見える景色を一緒に話したい。面倒だからやらなくてもいい、なのか、面倒だけど、こうしたら楽しいよ、なのか。「面倒」という感情に唯一勝てるのは「楽しい」という感情だけだ。
食事を自分の分だけ作るのは面倒だけれど、誰かと一緒に食べるためなら楽しい。味を褒めてもらえたらなお嬉しい。勉強をするのは面倒だけれど、誰かが褒めてくれるなら嬉しい。テストをスイスイ解けて、友人より点数が取れたら嬉しい。プールだってきっと、上手に泳げたら楽しくて、誰かに褒めてもらえれば好きだったはずだ。
「どうして勉強しなくてはいけないの?」と子供が訪ねてきたら、私はこう答えようと思う。
「ああ、そうだよな、勉強って面倒だよな。じゃあ私が、勉強が楽しくなる秘訣を教えてあげる。それはね、誰よりも上手くやることだよ」
そして一緒に教科書を開き、子供が問題を解いていくのを褒めたい。寝返りもままならなかった子供が、長い鉛筆を握って懸命に文字を書いているのだ。それはすごいことに決まっている。
文字を書けるなんてすごい。問題文を読めるのもすごい。答えを考えるのもすごい。間違っていても大丈夫。
あなたはきっと、すごい人だから。