ベローチェ/博多/無縁坂(240217)
台東区での間借り喫茶を始めて3ヶ月が経とうとしている。今日は間借り先の都合(夜の貸切)で早仕舞いした。近所のタイ料理屋でひとり食事をし、その後斜向かいの八百屋でパクチーとほうれん草を2つずつ買った。ほうれん草2つで100円、いちごおまけしちゃうよ、いちごちゃーん、と交差点に向けて絶叫していたお姐さんが素敵だったから。でもいちごはもらえなかった。今度カオマンガイでも作ってみよう。いまはベローチェで一服しながらこの文章を書いている。
ベローチェに這入ると博多の夜を思い出す。初雪が降っていた。携帯電話の充電をするためにベローチェ博多呉服町店に立ち寄り、パウロ・コエーリョの『ザーヒル』を読んだ。ベローチェを選んだ理由は、たまたま近くにあったのと喫煙ブースがあったから。今年の1月23日のことである。ずいぶん前のことに思えるが、まだひと月も経っていない。
福岡、佐賀、長崎を巡るひとり旅だった。
博多で喫茶店を訪ねて歩き、佐賀では武雄温泉に1泊して唐津、有田、伊万里を周った。長崎では大村市に1泊したが、飛行機の都合であまり長くは居られなかった。
珈琲美美は念願だった。1階がレジと物販、2階が喫茶スペースになっていて、レジの向かいには大きな焙煎機が鎮座していた。
階段をのぼると、木材と窓に掛けられた白い布の暖かい色調が視界を満たした。木漏れ日がカウンターに柔らかく横たわり、メニューには何種類ものモカが並んでいた。運が良かったのだろう、店主のかたが点てた珈琲をカウンターで飲むことができた。ブレンドの『濃味』と『イブラヒム・モカ』。店を出るときにふと、次はいつ来られるだろうと思うと、急に涙が出そうになった。1階の焙煎スペースから、豆を選り分けるしゃかしゃかという音がずっと聞こえていた。
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珈琲なんてもうやめようと思っていた。
去年の4月に家族が亡くなり、7月には実家がなくなり(売却)、しばらくは抜け殻のように生きていた。
去年の今頃(1〜2月)は阿佐ヶ谷で初の間借り喫茶をはじめたばかりだった。金が無くてもハングリー精神はあったから無駄にギラついていたし、いま振り返れば地味ながら手応えのある日々だった。
自分で焼いた豆を自分で点て、自分で選んだ道具とレコードと一緒に狭いカウンターで過ごした。
来客数は日に1〜6人というレベルではあったが(1日だけ0の日があった)、目の前のこの人へ、というシンプルで当たり前の事実をより強く意識した。美味しいというささやかなひと言が震えるほど嬉しかったのを憶えている。
しかし4月から色んなことが立て続けに起こり、結局そこでの営業は6月末で終わりを迎えた。というか、心身ともに疲れ果てて投げ出した。
四十九日法要の後息つく間もなく引っ越し(実家の家財をすべて運び出さなければならなかったので気の遠くなる作業だった)、折悪く仕事は18連勤、15時間勤務の日もあった。原因不明の鼻血が2回出た(大人になって初めてのことだった)。やっと少し眠ったかと思えば深夜に病院から呼び出されタクシーで駆けつける、そういうことも何度かあった。諸々タイミングが悪く重なってしまったのだろうが、7月にひとまず文京区のマンスリーに入居した頃には疲弊し切って何もやる気が起こらず、生産性のない日々を無為に過ごした。掛け持ちしていた仕事は6月いっぱいですべて辞めていたから、好きなだけ眠り、ベランダで陽を浴びて、暑さが和らぐ夕方にあてもなく街を歩き回った。本当はもう、生きているのが重かった。
9月末に次の物件に移ることは決まっていたので、二度手間にならないよう荷解きは最低限にして、なるべく質素でシンプルな生活を心掛けた(12弦ギターは買ってしまったけれど)。
ほぼ3ヶ月間を文京区で過ごし、ケツのほうにあたる9月11日、なぜか憑かれたように小説を書き始めた。『無縁坂』。坂道と音楽と喫茶店をめぐる小説だった。文京区界隈には名前の付いた坂道が多かったから(調べたら文京区は都内で2番目に坂が多いらしい)。
結局書き上げたのは10月31日、群像新人賞の応募期限20分前である。最後の3日間は漫喫に篭り、半ば無意識でひたすら書き続けた。だからあんまり記憶がない。ただめちゃくちゃ生きてる感じはした。
郵便局の閉まる5分前に無事発送し、地元のとある喫茶店でしばらく茫漠とした時間を過ごした(そのときは既に地元の物件に移っており、1ヶ月ほどだがそこに滞在した)。自分が何をしたのかよくわかっていなかった。
けれど、当時29.5歳だった自分にとってはその作業自体が精算であり、弔いであり、再生でもあった。
もう7〜8年曲を作っていないから、久しぶりに何か作品を吐き出せたという感慨があった。自分で作り出したはずの架空の人物が勝手に動き出し、喋り出し、自我を持ち独立した人格を形成していった。それは描写というより俯瞰の感覚に近く、初めて経験する自分にとっては堪らない愉悦だった。
書き終えた直後は明らかに正気を失い躁状態だったが、3ヶ月半経ったいまは流石に醒めて落ち着いている(怖くてまだ読み返せていない)。というか恥ずかしさのほうが既に優っている。万が一あれが世に出るような事態になったら羞恥のあまりまた発狂してしまうかもしれない。
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いまは紅茶専門店と多国籍料理店で掛け持ちしながら、月に一度台東区の物件で間借り喫茶をしつつ、郊外の街(東京の西のほう)でひとり暮らしをしている。学生時代から好きな街だった。南口から放射状の街並みが拡がり、個人商店が多くて居心地が良い。
東京の西と東を忙しなく行き来しながら、少しずつ自分を建て直している。でも正直、去年の今頃ほどのハングリー精神はない。この1年間であまりにも多くのことが起こり、いまだに回復はできていない。最近はまた忙しくなってリズムができ、それなりに生活を回している。たまの休みには部屋を整えて、好きだったものたちを確かめるように、そっと手を触れる。
間借り喫茶はまだ、もう少し続けられそうだ。いつまでもつかはわからないけれど、今回の物件は気に入っているから、細々と続けられたら良いと思う。
これからの身の振り方を考えなくちゃな、と思いながら、相変わらず似たようなことをしばらくはやり続けることになりそうだ。もう辞めよう、とまだいける、のあいだをゆらゆらと彷徨いながら、時折、無縁坂まで足を延ばす。