ポジティブ信仰の矛盾ー差別性と排他性ー
いつからだろうか。ポジティブな人、ネガティブな人を分け始めたのは。
常にポジティブでならなければならない。ポジティブな人間になれるように求められる。ネガティブな人とは関わるな。ネガティブ人間は他者を不愉快にさせる。
本当のポジティブであることの意味はもうどこにもない。そもそもポジティブとネガティブはどういう意味なのだろうか。
ポジティブ=肯定的
ネガティブ=否定的
が主な意味だろう。
そもそも人に当てはめる言葉が間違えている。
オプティミスト=楽観主義者
ペシミスト=悲観主義者
本来はこちらの意味が正しい。
ポジティブな人はそもそも差別などしない。人を排他的にも扱わない。人を選び、こうでなければならないと決めつけている時点で、自分たちが避けたいネガティブな存在になっていることを理解しているのだろうか。
ネガティブはいけない、ネガティブは悪い。
そもそもポジティブな人なら
「何か辛いことがあるのかな?こういう考えもあるのかな?」などに考えが変わるはずである。
ネガティブだと
誰も味方がいなくて
誰も守ってくれなくて
誰も声を聞いてくれなくなる
不愉快である
関わらない方がいいなどと言われると余計苦しくなる。
ネガティブにというか、ペシミストになってしまう理由は多くあるけれど、自分の素敵さが分からなくなってしまうからこそ起こる現象でもある。
隣の世界のあの子は、みんなが助けてくれて守られていて、その姿を見ると苦しくなった。
あの子の素敵さは、みんなが大切にしてくれるものである。でも、自分の素敵さは、何の意味もないと傷つけられる。誰がどう評価するのではない。自分自身が素敵だと思えるなら、それでいいはずである。
しかし、もしも素敵さを使って、今ある世界を変えたいと思うのなら違ってくる。誰かたちと違う世界から抜け出すために使うのなら違ってきてしまう。
素敵なものは、他者と自分に乖離がある。
自分の素敵なものが他者にとっては汚らしいものになれば、自分の醜いものが他者とって素敵なものに見えるものである。時に、他者は自分の素敵なものを否定してくることがある。その苦しみを乗り越えてこそ、素晴らしくなると言うものがいるが違う。
否定されれば、少なからず素敵なものに傷がついてしまう。そう、自分の素敵なものを守るってとても難しいことである。
意図をしていても、していなくても、他者は簡単に素敵なものを傷つけることはある。
ポジティブという人達は、知らず知らずのうちに差別や排他を行っている。そして、相手を傷つけるという形で素敵なものを壊して、ネガティブという檻に閉じ込めてしまう。
ポジティブであることは、素晴らしいことでもあるけれど、自分が一体何をしているのかを今一度考えていかなくてはならない。
常にネガティブという人の世界を見ることもなく、ネガティブという人の生きている社会を読み取ることもしないのに。
表面上や表面上の行動で判断するのなら、それは人種差別などと変わらない。
誰もがずっと明るく陽気に天真爛漫にいられるわけではない。大切な人の死や窮地に追い込まれた際にもボジティブを続けていられるのだろうか。それとこれとは別だというかもしれないが、近しい人の死や人生の窮地のようなことが常に繰り返されていると考えるのならどうだろうか。
前を向けないほど、笑顔を忘れるほど、未来に希望を持つこと全てを忘れるほど、苦しくなってしまった状況が続いてるとしたら。
あなたには想像できないほどの悲しみを背負っているかもしれないのに、それでもポジティブであることを求める理由はなんなのだろうか。
そして、ネガティブな人とかかわるな、ネガティブ思考を止めないと幸せになれないなどという言葉をかけることはおかしいことでは気が付かないのだろうか。
本当に関わってはいけないのは、ポジティブ信仰が行き過ぎたカルト・ボジティブな人だと感じる。
ポジティブの裏側には、過度な絶望と悲観が溢れていることで覆い隠すための行動とも言えなくはない。しかし、それでは自分がさられたことを他人にもして同類になってしまっている。
本当のポジティブ、つまりオプティミストであると思うのならば、まずは自分の問題にしっかりと向き合って行く必要があるのだろう。
もしも過度にポジティブを求めていたり、ネガティブを嫌う前に、己の心を省みなければならないのだと思う。