「主の祈り」を知ったのは、クリスチャンになってよかったことのひとつ ~日常的に使っています
日本にも、キリスト教系の幼稚園や学校はけっこうあるので、「主の祈り」をご存知の方は多いかもしれません。「天にまします我らの父よ……」のように始まる、キリスト教の代表的な祈祷文です。
プロテスタントの場合は、お祈りは基本的に自分の言葉でするのですが、主の祈りは大切にしていて、礼拝でも用いています。少なくとも私がおじゃましてきた教派では、そうでした。
(プロテスタントは教派がたくさんあり、それぞれ異なる部分がありますから、全部がそうとはかぎりません)
毎回、礼拝の最後のほうで、参加者全員で声をあわせて、主の祈りをとなえます。
実は、まだノンクリスチャンだったころ、ひとりではじめて訪ねた教会の礼拝で、みなさんが一斉にこの祈りをとなえたときには、ちょっとびっくりしました。「うわ、宗教だ」と思いました(笑)。でも、キリスト教は宗教ですから、それは当たり前のこと。むしろ、変に俗化しないで、伝統宗教らしい面をちゃんと見せてくれることに、好ましさを覚えました。
ちなみに主の祈りは、新約聖書のなかで、イエスさまが弟子たちに「こう祈りなさい」と教えた、とされているものです。
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が崇(あが)められますように。
御国(みくに)が来ますように。
御心(みこころ)が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。』
(マタイによる福音書6:7-13)
この『』の部分が主の祈りの原型です。いま教会で使われている祈祷文も、日本語訳にはいくつかのパターンがありますが、内容はだいたい同じです。
教会に通いたてのころは、「覚えられるかなあ」と心配でした。けれども繰り返し祈っているうちに、自然にそらで言えるようになりました。
いまでは、同じ祈祷文で仲間と祈りを合わせられることに、喜びを感じます。励まされる気持ち、と言ったらいいでしょうか。
今年の3月には、カトリックのフランシスコ教皇の呼びかけで、世界じゅうのクリスチャンが教派を超え、同日の同時刻に、主の祈りで心を合わせたという出来事がありました。新型コロナウイルスの世界的な感染拡大に対応してのことでした。
詳しくはこちらの記事をご覧ください。
私もこの日は、夫と一緒に自宅で主の祈りをとなえました。短い時間のお祈りでしたが、言葉にこめた願いはバチカンの教皇さまや、世界のクリスチャン仲間と重なっていた、と思います。
コロナは怖かったですし、いまも怖いですが、こうした祈りの時間を持てたことで、気持ちは落ち着きました。
洗礼を受けてまだ間もなかったころ、クリスチャンの先輩が、「悩みや苦しみによって、祈りの言葉さえ出てこないような状況のときは、とにかく主の祈りをとなえればいい」と教えてくれたことがあります。
そのときは「そうなんだ」と思い、いまは「たしかにそうかも」と思います。なにしろイエスさまが、くどくど述べずにこう祈りなさいと教えてくださった文言ですから。
私はいまでも日常的に、主の祈りをとなえます。たとえば仕事で重要な連絡をする前とか、力を入れた原稿をアップする前とか。心配事があるときとか、勇気を出したいときとかに。
最近は夫と相談し、毎日、食前にする祈りのうちの1回を、主の祈りにしています。ここ数日実践していて、気分的にもけっこいいものだなと思えます。
考えてみると、いまや主の祈りは、私の暮らしに欠かせないもの。
主の祈りの言葉を覚えることができ、こうして日々用いることができるのは、クリスチャンになってよかったと感じることのひとつです。
◇見出しの写真は、みんなのフォトギャラリーから、hanakokoroさんの作品を使わせていただきました。ありがとうございます。
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