ときには、心に銀の針を忍ばせて。
こんにちは。桜小路いをりです。
先日、『言葉は、「私」をつくる。』という記事を投稿しました。
この記事で散々、言葉を使うことの重さと言葉への美意識について書いたのに、途端に「心に針を忍ばせる」なんてタイトルの記事を出すことにしたのには、理由があります。
『言葉は、「私」をつくる。』の記事の文章だけ読むと、「前向きで綺麗な言葉を使うことが何より大切」というニュアンスが少し強すぎたのではないかな、と思ったんです。
生きていれば、ときにはすごく腹が立ったり、誰か、何かにひと言物申したくなることもある。
皮肉なジョークに、くすっと笑いたくなるときもある。
そうやって溜飲を下げないと、たまらなくなることもある。
そのために、心に銀色に光る「針」を忍ばせていることも、ときには大切だとも思います。
でも、自分の「言葉への美意識」のために、その針すら美しいものを携えていたいとも思うんです。
ということで、そのためのヒントを得るべく、堀元見さんの『教養(インテリ)悪口本』という本を読みました。
古今東西の学問、教養の力を借りて、極力遠回しに、そして知的に美しく「悪口」を言うための本です。
この本は、別に「積極的に悪口を言っていこう」というものでは決してありません。
そして、少なくとも私は、苛立ちの原因になった相手に、直接この本に書かれている言葉をぶつけるつもりはありません。
では、なぜこの本を手に取ったのか。
それは、「まあ、そんな考えもあるよね」「そんな人もいるよね」で流せないことって、生きていれば絶対にあるからです。
そんなとき、心の中でこっそり囁いて、少し溜飲を下げてすっきりできたら。
しかも、自分の言葉への美意識を損なわない範囲内で。
そう思った結果の、この本でした。
「はじめに」には、こんなことが書いてあります。
世の中にはどうしたって色んな人がいるし、SNSで色んな言葉に出会える。否、出会ってしまえる。
だからこそ、自分の心を守るためにも、「針=知的かつユーモラスな、美しい悪口」は必要なんじゃないかなと思います。
それは、誰かにちくりと刺すためのものではなくて。
苛立ちを消化して、笑い飛ばしてしまうための手段として。
用途をわきまえて、慎重に、丁寧に扱う分には、何も悪いことはないんじゃないかなと思います。
ちなみに、私のお気に入りの教養(インテリ)悪口はこちらです。
SNSサーフが趣味の方なら、誰もが一度は目にしたことがある、見当外れかつ不快なリプライに対するひと言です。
これは、「かすれた文字や小さい文字などで『読みにくくすること』によって、『パッと答えられる』という感覚がなくなり、一生懸命に読むから、誤読・誤答しない」という、人間の認知特性を使った悪口。
つまり、平たく言ってしまうと「ちゃんと読めよ」になる言葉を、あえて捻って曲げて遠回しな表現にしているのです。
私はそういったコメントをいただくことがないので、別に使う機会はないのですが。
YouTubeのコメント欄などで、むっとくる言葉を見つけてしまったとき、あるいは、万が一にもそうしたコメントをもらってしまったとき、心に潜めていると重宝する……かもしれません。
この記事で何を伝えたいのか、といいますと。
常に前向きでいる必要はないし、むしろ、後ろ向きな気持ちが湧き上がってくるのは当たり前で、喜怒哀楽の「怒」や「哀」も、生きるうえでは大切なもの。
自分の美意識に妥協しない程度の言葉で、負の感情を表現して消化することも必要です。
そのために携えておく言葉こそが、きらりと光る、お守りのような「銀の針」だと思います。
私のnoteでは「前向きなことを書く」をルールにしているのですが、私自身は、別に「負の方向のことを考えない」わけではありません。
ときに優しくないこの世界を生き抜くために、処世術として、「銀の針」を忍ばせていることも大切。
それを、先日の記事の補足として、したためておきます。
バランスを整えながら、こころ軽やかに生きるための術を、これからも模索して発信していきたいです。