月の裏側は、見たい人だけに用意される
5年ほど前、自己啓発セミナーの一環で参加したとある合宿中。
ワーク中に怒りがむくむく湧きあがり、私の父に見立てたトレーナー役の男性に、馬乗りになってボカスカなぐったことがある。
本来は「悲しみを癒やし、涙があふれる感動のワーク」になるはずだったらしい。
どっこい意に沿わずバイオレンスな展開にしてしまった。ごめんなさい。
わずかな理性でボディのみよ、顔はなぐらなかったよ。
だからといってやっちゃいかんことには変わりない。
ワークのあとでトレーナーの男性に謝ると「いやーいいパンチだった」と笑って許してくれたが、気持ちは晴れず、浮上した得体のしれない感情と居心地悪く過ごした。
その感情に今も名前はつけられていない。
愛は愛だが、ちょっと言葉が大きくてしっくりこない。
あのとき湧いた怒りは二次感情で、怒りの下には悲しみがあったとあとで知った。
父に全肯定されたかった、いじけた心の。
合宿後も感情ジェットコースター状態は続き、しばらくへとへとだった。
「好きなものは映画、嫌いなタイプは傲慢な人です」など、軽くさらりと答えられる関心ごとを「表の関心」とするなら、家族への言いようのない感情など重さをともなう「裏の関心」は、月の裏側みたいなものかもしれない。
地球にいる限り見ることのない月の裏側は、太陽の光が届かない暗黒面だ。
氷山にぽかっと見える顕在意識が、地球から見える月面とするなら
冷たい海中に潜らないと見えない潜在意識は、月の裏側だろうか。
月の裏側は、見れなくても私たちの日常生活になんの支障もない。
べつにわざわざ裏側に関心をよせなくても、満月や三日月、上弦の月、下弦の月、半月、さまざまな月の表情が楽しめる。お月見もできるし。
でも、人によっては。
あるいは、人生のタイミングによっては。
表からは見えない部分を、どうにかして知りたいと思うときがある。
見えない部分が、自分のナニカにつながれている。直感に近いのかもしれない。
うまく動けない引力の正体がなんなのか知りたい。
めんどくさいけど、怖いけど、自分の裏側へわざわざ周りこみそこに何があるか確かめたい。
どんなビリーフ(信念)がわたしの裏側に張りついているのか。
裏っかわへの旅を終えて、地球に還りついたとき
「知ってよかった」という安堵の解放感を味わえるのか
「知らないほうがよかった」という深い後悔にのまれるかはわからない。
きっと、裏側へ行きたい気持ちは、生きたい気持ちと同じ軌道上だ。
自分の裏っかわを覗いてみようと小さい覚悟を決めたとき、すでに
「心を強くする」がおまけでついてくる。
月の裏側に張りつく昨日まで未知なる裏側のビリーフ(信念)を見つけたら、こんな選択肢が手にはいるかもしれない。
A) 引き続きそのビリーフをもって生きるか
B) 今まで守ってくれてありがとね、でももう大丈夫と手放すか
C) 呆然としばらく眺めてみるか
D) 誰かと一緒に眺めてみるか(裏のお月見🌑🌕?)
選択肢に気づいたら「選べる自由」が手にはいる。どれを選んでもいい。
選択肢に気づかなければ、一択の人生かもしれない。それもいいかもしれない。
でも知りたいと思っちゃったんだよなぁ。
月の裏側で「選べる自由」が待っているかもしれない。