無知
何も知らないことが救いになることって沢山あると思う。でも自分は知らないことを知りたいと思うし目を逸らしたくないとも思う。
必ず痛みも伴うし、思考が複雑になればなるほど選択を迷う。
偏差値の高い学校に行く人間に当てはまるのが、「勉強は必ず将来の役にたつ」という思考で。「高学歴でも落ちこぼれ」の存在を見てないし「正当に評価されない、その人の立場から見ても貰えない高学歴」の存在を知りもしない。
大抵みんな純粋な目で
「自分たちはいい生活を送れる」と思っている。「努力は絶対に報われる」。
何も知らないから、まるで宗教にハマるように勉強の可能性を信じて努力ができる。それって人生のプラスになることで、すごくいいなと思う。
話は少し変わるが、私には2人の親がいて、そのうちの1人は離婚寸前の家庭で育てられた人間。両親の仲が悪く、常に喧嘩も耐えない、なんなら父親がヤバくてキャバ嬢を家に連れてくるみたいな。そんな中で育った彼女は、「愛のある家庭、家族の結びつき」みたいなものに執着していて、親を反面教師にしたみたいな感じ。
あれは間違いで、反面教師にするという決断ができるのも知識があるから故に出来ること。東大に高卒トンビから生まれた鷹のふりが出来るトンビもそういう感じなんでしょうね。(東大のトンビは本人の言葉です。)
結局、黒い部分は黒いままで、見ようとしていなくても黒い部分なんて数え切れないほどあって。どこかで必ずぶつかるし、見ないで生きることは難しい。既知概念を知るために既知の概念が必要なように、既にある知識についてジャッジするために既に持つ知識が必要。
だから無知であることは、この世界で
上手くジャッジが出来なくなるということで、
どんなに見たくないものでも知識として持つことは大切なんだろうなって思う。
そして黒い部分を見てきた人間は、見てこなかった人間よりもちゃんとジャッジができるようになっている。
そう思いたい。