美の来歴◆53 エロスの震撼 〈棟方志功〉をめぐる人々 柴崎信三
―太宰治、保田與重郎、柳宗悦、谷崎潤一郎‥‥
太宰治は、その日の会合への出席をいつまでもためらっていた。
昭和14年9月20日、午後5時半。会場は日比谷公園内のレストラン、松本楼。
東奥日報東京支社が故郷青森出身の作家や詩人、画家、評論家らに呼び掛けた「在京芸術家懇談会」である。案内をもらいながら出席を迷ったのは、もちろん理由がある。
芥川賞の落選と薬物中毒による入院、小山初代との心中未遂と離婚。ようやくこの年初めに恩師、井伏鱒二の媒酌で石原美智子と再婚して三鷹に住まいを定めたばかりである。
貴族院議員を父に持つ津軽の旧家、津島家の末子とあれば、ここはひとつ名誉を挽回して「衣錦還郷」の手がかりとする格好の機会ではないか。否、のこのことそんな場所へ出かければ、郷土の恥という罵言と嘲笑を蘇らせるだけではないか―。
逡巡のあげくに、妻に命じてとっておきの仙台平の袴を行李の奥から出させて、紺絣の着物で家を出た。折からの大雨のなかである。
おくれて到着した太宰が会場の末席に近い椅子に座ると、出席者の自己紹介がはじまっていた。座長格の秋田雨雀に続いて、あいさつに立ったのが版画家の棟方志功である。
「青森市大町1番地一号、棟方志功であります。版画をやっております」
小柄だが精悍そうで、津軽訛りの声は会場によく響いた。縮れた髪の禿げ上がった顔には分厚いレンズのロイド眼鏡があり、その奥から両の眼が爛々とした光を放っている。
あいさつの順番が近づくにつれて緊張が高まるから、太宰は卓上に並んだ酒を勝手に飲んで、それを振りほどこうとしたが、すでに酔いが回っている。のちに小説『善蔵を思う』のなかに、太宰はこの場面を描いている。
一方「だみ声」の主の棟方も、同じ場面を『板極道』で回想している。
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青森市の貧しい鍛冶職人の家の6男に生まれ、極度の弱視という肉体的なハンデにくわえて、学歴も人伝手もないままに美術家への道を突き進んだ棟方は、土俗的で野性味あふれるエロスをたたえた作風でこのころ、すでに注目される版画家になりつつあった。
前年に謡曲に取材した「善知鳥」で版画としては初めて文展の特選となった。この年に手掛けた「釈迦十大弟子」は戦後、サンパウロ国際美術展やヴェネツィア・ヴィエンナーレで最高賞などを受賞し、〈棟方版画〉が国際社会の脚光を浴びるきっかけの作品である。
画壇と文壇の違いはあっても、太宰に対しては同じ津軽出身のライバル意識が強く働いていたに違いないが、6歳年下で醜聞にまみれた自意識過剰の酔いどれ作家に対して、棟方が抱いた嫌悪感の大きさはたやすく想像できる。
棟方は『板極道』のなかで当時をそう振り返っている。
「日本浪曼派」は日本の歴史と伝統への回帰を掲げて、若い文芸評論家の保田與重郎が中心となって創刊した雑誌で、亀井勝一郎や檀一雄、それに太宰治も一時は同人として小説やエッセイを寄稿しているから、棟方にとっては因縁の雑誌である。
昭和10年5月、「日本浪曼派」に『道化の華』を掲載した太宰はその秋、第一回の芥川賞候補に挙げられたが落選の憂き目にあった。「作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の率直に発せざる憾みがあった」という川端康成の選評に激高した太宰は、「大悪党」「刺す」と息巻いた。太宰は自信満々の棟方と貴族的な関西人の保田を嫌い、保田は無頼な太宰を嫌いながら、棟方の異形の才能に一目置いた。そして若い保田の文藻に敬意を寄せた棟方は、同郷の太宰を嫌った。それは保田と「日本浪曼派」といういう雑誌が総力戦体制へ向かう日本の思想界にもたらした、陰翳の縮図であったのかも知れない。
大和桜井の旧家に生まれて、ドイツロマン派の影響のもとで古代や王朝時代の日本の伝統を玄妙な美文で論じる保田と、縄文的ともいうべき棟方の荒々しい土俗的な造形がどのような水脈でつながっていくのか。棟方は「日本浪曼派」の同人ではなかったが、保田とのつきあいは親密をきわめた。『日本の橋』をはじめとする保田の多くの著作の装丁や挿絵を手がけ、前身の雑誌「コギト」には自ら鉄斎や写楽を論じた文章を寄せている。
昭和11年に国画会展に出品した「大和し美し」は、棟方とこの若い伝統美学の論客との間に生まれた絆とその作品への影響を考えるうえで、見逃せない作品である。
ここで棟方が拠り所としたのは、詩人の佐藤一英の長編詩「大和し美し」である。冒頭に「大和は国のまほろばたたなづく青垣山隠れる大和し美し」という絶唱を掲げて、ヤマトタケルが過酷な遠征の果てに遠く伊勢の地でまさに果てようとするとき、ミヤズヒメ、オトタチバナヒメ、ヤマトヒメという、3人の女性への激しい思慕を蘇らせる。
実は棟方のこの作品が出品されたのと時を同じくして、保田與重郎は日本浪曼派の雑誌「コギト」に『戴冠詩人の御一人者』という論考を発表している。そこではやはり『古事記』のヤマトタケルの薨去を主題にしており、「大和し美し」と同じように武人ではなく詩人としてのその死に、あつい眼差しを注いでいる。
佐藤一英の詩から霊感を得た得た棟方が、ヤマトタケルの死に「大和し美し」のモチーフを育み、前後して保田が『戴冠詩人の御一人者』でその詩人としての死を詠っているのは、おそらく偶然ではあるまい。
「日本浪曼派」と保田與重郎の言説はその後、日本が次第に戦時体制の軛を強めるにつれて、その「日本回帰」の思想が戦争を美化し、国粋主義的な世論へ国民を導く役割を担ったともいわれる。対米開戦の翌年、「対米宣戦の大詔を拝し、皇国の向ふところ、必ず真に神意発するあると確信した」と書いた保田與重郎の名が戦後、禁忌となってゆく背景には、こうした戦時体制下の国粋美学の奔流があったわけである。そして、棟方もたしかにその渦のなかにいた。
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「わだば(自分は)ゴッホになる」という初心を糧にして、版木に鑿で穿った線と面で描く版画をあえて「板画」と名付けた志功は、画題を古代神話や仏教の教義説話、古典文芸などに取材した。紙の上に生まれる豊饒な天地は、魔術のような鑿が彫り起こした。
厚い眼鏡越しに顔を版木にほとんど接して鑿を振るう職人的な技巧から、文殊や普賢といった菩薩をはじめ、伝説や物語の主人公や動物たちが立ちあがる。なかでも評判を高めたのは、「棟方版画」の心髄ともいうべき豊満でエロティックな女性像である。
人間の原初的なエロスを爆発させた「棟方版画」は当初、画壇やアカデミックな評価の場面ではもちろん顧みられなかった。津軽という文化の辺境から生まれたこの無名の作家に光を当て、国際的な舞台への道を切り開いたのが、「白樺派」の流れをくむ柳宗悦や浜田庄司、河井寛次郎ら「民芸」の収集家や美術家たちである。
きっかけは昭和11年、あの「大和し美し」を出品した国画会の審査の場である。
上下二巻の絵巻物は四つの額縁に収められた20枚の版画で構成されていて、その巨大な迫力が見る者を圧倒する。ところが、この大きさがほかの作品の展示を妨げるというので、審査委員会は入選展示から外してしまった。
落胆した棟方が泣きついたのが、その場にいた柳宗悦だった。
学習院から東京帝大哲学科に学び、武者小路らと「白樺」を創刊、ウィリアム・ブレイクやホイットマンの詩を紹介する一方、浜田や河井、バーナード・リーチらと民芸運動を興した。津軽の貧しい職人の息子で学歴もない棟方とは、対照的なエリートである。
柳は即座にその場で言った。
「それなら、この作品を日本民芸館で買い入れよう」
「用の美」を掲げた民芸運動は、庶民の暮らしと風土の中から生まれた素朴で大胆な工芸の美しさを探って収集や調査を重ねていた。武者小路実篤らの「白樺」の系譜を継いだ柳たちにとって、「棟方版画」はその「民芸」の美学にまさしく符合したのである。
棟方との出会いよりはるか以前に、柳は「用の美」を生みだす職人芸の魔法をこうたたえている。それは戦後になってから、ヴェネツィア・ヴィエンナーレをはじめ世界から喝采を浴びてゆく〈ムナカタ〉のその後を予言したものであった。
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自分を押し出して人の心に分け入り、いつの間にか味方としてしまうある種の厚かましさが棟方の天性であり、また寄る辺ない徒手空拳の歩みが育んだ処世の術でもあった。
戦後になって文壇の巨匠、谷崎潤一郎の依頼で連載小説『鍵』の挿絵を担当した棟方の官能的な造形は、夫婦関係の秘密をめぐるこの小説の奇想にこたえて評判をとった。浮世絵の「大首絵」を現代によみがえらせた、エロティックな女性の裸像が、小説と挿絵のコラボレーションとして戦後の日本の風俗と美意識を見事に浮き彫りにしたのである。
谷崎潤一郎の文学がもともと持つ「女性崇拝」、あるいは「女性拝跪」の思想は、『鍵』や『痴人の愛』や『瘋癲老人日記』、などの作品を繙くまでもなく、作家の体質的なものとしてあった。その水源を探れば、『母を恋ふる記』に見るように、幼くして母を亡くした少年が長じてなお抱き続ける、母なる女への強い追慕の情念にたどりつく。
それは棟方志功においても同じである。津軽の鍛冶職人に16歳で嫁入りして12人の子供を生み、「着物といっても赤い色の入ったものを何一つ身に着けていた記憶がない」という薄幸な母親は、42歳で亡くなった。あの『弁財天妃の柵』のふくよかで華やかな美人の「大首絵」は、はるかな母恋いの夢想が彼の手を動かし、鑿を走らせたのだろう。
志功の版画の挿絵が評判となって、谷崎の『鍵』のきわどいエロティシズムが社会的な賛否の論議にまで発展した同じ年、棟方は第28回ヴェネツィア・ヴィエンナーレで国際版画大賞を受賞した。出品作品の目玉は豊満な6人の女性の肉体を通して「大蔵経」にある6つの仏教思想を描いた『湧然する女者達達』という作品である。これを画期として、彼は国際的に知られる日本人版画家として「世界のムナカタ」の道を歩んでゆく。
満々の自負が目に浮かぶこの棟方の談話の凡庸さとは裏腹に、ヴェネツィアでの受賞は戦後の日本から国際社会に広がる新たなジャポニスムが開花した一場面であった。それまで世界の目に触れることの少なかった「棟方版画」のアルカイックな生命力と土着的なエロスが、欧米の熱いまなざしを集めて光が当てられたのである。
映画ではベネチア映画祭で黒澤明の『羅生門』、カンヌ映画祭で衣笠貞之助の『地獄門』がそれぞれグランプリを受賞、文学では谷崎潤一郎や三島由紀夫、川端康成の作品が次々と翻訳されて、ノーベル文学賞の候補にあがっていった時代である。
「棟方版画」の奔放でミステリアスな造形に対する世界の喝采は、占領期を脱して経済成長へ歩む〈戦後〉の日本の青空に向けて放たれた、大輪の花火であったに違いない。
◆標題図版 「弁財天妃の柵」(1965年、木版彩色、棟方版画館蔵)