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私が生み出したものだったもの

ティッシュを頂けますか?持ち合わせがなくて…

その少し前、鼻を啜る音が聞こえていたので、花粉の季節だからなぁと思いながら渡しに行ったら、涙を流していた。

優しい味がして…

過去にもそんな事が何度かあった。

うろ覚えだが、小説 食堂かたつむりで、主人公が料理を出した後(自分の作った料理を食べている人の顔を真正面から見るのが恥ずかしくて)客席と厨房の間にあるカーテンを閉めて厨房にこもる描写がある。

私もちょっと、いや、けっこうその気持ちが分かる。

と、書きながら気付いたのだが、見るのが恥ずかしいのではなく、自分が作った人に真正面から見られるのが苦手なのか。(ちなみにその主人公はカーテンをこそっとめくり、手鏡で顔を観察する。見れないけど、見たいのだ。)

作り手として相手の反応が気になるのではなく、作った人に反応を求められるのが気が散るという理由だから、主人公の気持ちとは別種のものだ。

外界に対して反応しなくてはいけないというのが、自分のタスク処理能力の限界を超えてしまう。

目の前にある料理と向き合って、食べる前、噛んだ瞬間、噛み締めている間、飲み込んだ後、絶えず発信されている信号を漏らさず受信する、そんな反応に精一杯で、他のことに気をまわす余力がない。まわせないことはないが、まわせば取りこぼしてしまう。

もちろん、場を楽しみに行っている時は違う。レストランや居酒屋などエンターテイメント性があったり、作り手の主張が前面に出ているような料理は別で、一口目の驚きの共有をしたりはするし、お皿とお皿の合間には会話が生まれる。そういう楽しみ方のモードで臨む時は問題ない。

これが定食や麺や丼、「食事」という属性の強いものとなると向き合わせる力が強く、最適な流れで最良の終わりに辿り着きたい。100%受け取りたい。そんな理由で麺は特に会話を挟む余地はない。

黙々と感謝して食べる。そんな昭和の日本の食卓の在り方の呪縛に縛られているのだろうけれど、それはこの先も縛られ続けても悪くない呪いだと思っている。

大いに脱線してしまったが、私は作るのではなく、最適な形に変化させるだけで、私が残らないことを心がけている。

目の前に運ばれてきた食べ物とただ向き合って、勝手に受け取ってもらえたというのがとても嬉しかった。

その数日後、ラジオから流れてきた松任谷由実の言葉

「ポップスは、送り手のものじゃなくて受け手のものだと思っているんです」

料理を含め、様々な表現にも当てはまると思うのです。

手を離れた瞬間に「私が生み出したものだったもの」になる。

結局この投稿は何を伝えたかったんだっけ。伝えたいんじゃなかった。残したかっただけだった。

込めるべきなのは伝えたいという念じゃなくて、受け取ってもらえますようにという祈り。

いつか、どこかで、誰かが拾って、好きなように味わってもらえたら嬉しい。

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