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時間泥棒にささやかな抵抗を

「便利になって短縮されている時間で余暇が生まれているはずなのに、何故かますます忙しくなっている」と誰かが言った。

毎日詰め込みすぎていて、誰が言った事だったかすら思い出せない。

完全にミヒャエル・エンデのモモの世界の住人となってしまっている。

noteが1番書きたい媒体なのに、1番書けずにいる。ある程度の長い文にしようとすると、隙間時間ではうまく纏まらず、先送りにして、流れる。その繰り返しだ。

テクノロジーの進化(主に通信速度の高速化と、遠隔地とのリアルタイム共有)によって、できるようになってしまった事で、いつの間にか毎日必ずする事が凄い量になっていた。(するっと打ち込んだ、できるようになってしまったという表現が、心の奥ではそこまでの便利さ、速さを望んでいないという事だろう)

毎日必ずする事は、まず漁港に行って今日の函館の様子を、函館を離れて暮らす人たちの為にストーリーにアップする。世界に1人くらいは楽しみにしてくれている人がいるだろうと、イラストのブログの更新。もうひとつインスタで写真と雑感の投稿をする。「いつも楽しみにしています」という声がひとつならずある為、店のオープン時間にコーヒーを淹れる様子のストーリーをアップ。threadsに地方都市らしい風景の動画をアップ。

毎日ではないが、これ以外に店のアカウントでの発信もある。

全てやりたくてやっている事で、苦痛に感じる事は一切ないが、なかなかに時間は奪われている。電波を失えばそれらに使う時間は、別の事に使える時間となる。

帰宅して時間的、体力的余裕があればドキュメンタリー系の動画を見る。TVの見逃し配信、Amazonプライムビデオ、YouTube、見たいものは無限にあり、増える一方、早く見ないと消えていくものもある。

時代病にまんまと罹り、1.2倍速、内容が把握できればいいだけなら1.5倍速で、更に途中飛ばしをしたりする。

しっかり向き合う事をしない動画を見る為に、帰り道に綺麗な月が出ていても足を止めずに全速力で自転車を漕ぐ。

電波を失えば、月を見る時間が戻ってくるだろう。あんなにサクサクと動画が見られなければ、音楽をじっくり聴く時間が戻ってくるだろう。

モモの初版は1973年。華やかな時代の人々の心に警鐘は響かなかった。キャッシュレス、ペーパーレス。行政手続きもどんどん電子化へ。デジタル技術を放棄すれば社会生活が送れなくなった世の中。幼い頃に読んで心に残っていても、大人になって読んではっとしても、個々人ではもう抗いようがない時代になった。

昨今は喫茶店の景色も変わり、2人連れで2人ともスマホしか見ずに、会話を交わさず帰る事は標準的な過ごし方となった。自分だけ目の前以外を放棄、遮断しても、周りがみんな目の前と向き合っていないのなら、きっとその孤独に耐えられない。

どうやら時間泥棒は莫大な利益を上げているようだ。
これからも莫大な利益を上げ続けるだろう。

心のどこかで、太陽フレアの電波障害で、世界が大混乱に陥る事を期待していた。
それはさらりと流れ、「あったね、そんな事」という感じになっている。
またフレアが起こるまで、そういう危機がある事は忘れて過ごすのだろう。
おそらく自分が生きている間は、電波を失う事はなさそうだ。
この時代病とうまく付き合っていく術を考えなくてはならない。

時間泥棒に、ささやかな抵抗を。
アナログ時代の末期の今、改めて警鐘を。

人間はじぶんの時間をどうするかは、じぶんできめなくてはならないからだよ。だから時間をぬすまれないように守ることだって、じぶんでやらなくてはいけない

ミヒャエル・エンデ モモ

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近藤 伸  /  クラシック(函館)
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