終わりは知らない方がいい?
いつもの店が閉店する。
「あと4回」
来年からいつもの過ごし方ができなくなるわけだけど、すでに気持ち的に、いつもの過ごし方ができなくなってしまった。
「あと3回」
なんだか落ち着かない。
いつもの過ごし方ができない。
挨拶をし、空いていればバラの前の席に着き、間髪入れず朝宮茶を頼むのというのがほぼ毎週のルーティン。
心残りにならないように、いつか一度くらいは食べてみようかと思っていた、おしるこを頼んだりしてしまって、貴重な「いつもの」を味わうことなくカウントダウンがひとつ進んでしまった。
ここを一枚だけ写真撮ってもいいですか?
なんて、普段はするはずのない行動もしてしまう。
もう「いつもの」はすでに終わってしまった。
次回来た時は「あと2回」とそわそわして過ごすのだろう。
駆け込み客の流れも激しくなり、ささっと飲んで、ささっと帰ることだろう。
自分が店を畳む時のことを考えた。
インフルエンサー対策で、告知しないという考えだったけれど、こうして客としてこの流れを体験して、告知しないか、しても数日前がいいだろうなと、その理由がアップデートされた。
たとえば、何歳の何月何日に死にますと、知れたとしたら、よりよく生きられるだろうか。
次があると、お気楽に、雑な過ごし方をして、ほんの心の片隅で、実はこれで最後かもしれないと杞憂を抱いているくらいが、今をベストな状態で味わうことができるような気がする。
味わい尽くそうなんて気持ちが入ってしまったら、ベストはもう味わえることはないだろう。
「いつもの」「これだけ」になるほどの愛することになったそれの真髄は、いつもの状態だから味わえていたのだから。
いつかは…という覚悟は心の片隅にあったから、行ったら閉店していたとなっていたとしたら、おそらく清々しくもあったと思う。
前回が最後だったのだなあ…と回想されるのはいつも通りに過ごした温かい思い出。
それはなかなか、いいのではないだろうか。
「終わるから」と真剣に向き合うと味わい尽くせなくなるのを知った。
味わい尽くすには「いつかは…」というほんのり漂う切なさが必要らしい。
来年も見れますようにと眺め続けたバラと、これで最後なんだなと見つめたバラは、まったく違うものに映った。
終わりは知らないでおきたいものだ。
でも、知らせてくれてよかったという気持ちもある。
おしるこが幻にならなかったから。
切るはずのなかったシャッターを切ることができたから。
自分の番の時、揺れるなあ。
「いつもの」や「これだけ」の終わりの日
知りたいですか?
知らないでおきたいですか?