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終わりは知らない方がいい?

いつもの店が閉店する。

「あと4回」

来年からいつもの過ごし方ができなくなるわけだけど、すでに気持ち的に、いつもの過ごし方ができなくなってしまった。

「あと3回」

なんだか落ち着かない。
いつもの過ごし方ができない。

挨拶をし、空いていればバラの前の席に着き、間髪入れず朝宮茶を頼むのというのがほぼ毎週のルーティン。

心残りにならないように、いつか一度くらいは食べてみようかと思っていた、おしるこを頼んだりしてしまって、貴重な「いつもの」を味わうことなくカウントダウンがひとつ進んでしまった。

ここを一枚だけ写真撮ってもいいですか?
なんて、普段はするはずのない行動もしてしまう。
もう「いつもの」はすでに終わってしまった。

次回来た時は「あと2回」とそわそわして過ごすのだろう。
駆け込み客の流れも激しくなり、ささっと飲んで、ささっと帰ることだろう。

自分が店を畳む時のことを考えた。
インフルエンサー対策で、告知しないという考えだったけれど、こうして客としてこの流れを体験して、告知しないか、しても数日前がいいだろうなと、その理由がアップデートされた。

たとえば、何歳の何月何日に死にますと、知れたとしたら、よりよく生きられるだろうか。

次があると、お気楽に、雑な過ごし方をして、ほんの心の片隅で、実はこれで最後かもしれないと杞憂を抱いているくらいが、今をベストな状態で味わうことができるような気がする。

味わい尽くそうなんて気持ちが入ってしまったら、ベストはもう味わえることはないだろう。

「いつもの」「これだけ」になるほどの愛することになったそれの真髄は、いつもの状態だから味わえていたのだから。

いつかは…という覚悟は心の片隅にあったから、行ったら閉店していたとなっていたとしたら、おそらく清々しくもあったと思う。

前回が最後だったのだなあ…と回想されるのはいつも通りに過ごした温かい思い出。

それはなかなか、いいのではないだろうか。

カメラロール最古の写真は2015年4月だった
これ以来ここから写真は撮ったことがなかった

「終わるから」と真剣に向き合うと味わい尽くせなくなるのを知った。

味わい尽くすには「いつかは…」というほんのり漂う切なさが必要らしい。

来年も見れますようにと眺め続けたバラと、これで最後なんだなと見つめたバラは、まったく違うものに映った。

終わりは知らないでおきたいものだ。

でも、知らせてくれてよかったという気持ちもある。
おしるこが幻にならなかったから。
切るはずのなかったシャッターを切ることができたから。
自分の番の時、揺れるなあ。

「いつもの」や「これだけ」の終わりの日
知りたいですか?
知らないでおきたいですか?

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