フンコロガシの歌
「フン・フン・フンコロガシ」という歌があるのをご存知でしょうか。
川田義雄の歌(「地球の上に朝が来る」)のような歌詞で始まるNHKのEテレ「むしむしQ」という番組での歌です。
昔々、エジプトではフンコロガシ(スカラベ)は聖なる虫であったそうです。
それは、彼らがフンの団子を運ぶさまが、太陽の運行(シャレではない)のように見えたからだと言われています。
太陽信仰は広く世界に行きわたっています。日本も太陽神を戴く国のひとつですね。
以前、暦法の話でも触れましたが、太陽の働きは偉大です。太陽の光や熱や重力の影響がなければ、私たちの生命はもちろん、地球の存在だってありえないからです。
農耕生活が中心ではない今の社会だと実感は薄いのかもしれません。しかし、私たちがものを食べて生きているからには、日々の気温の変化や明暗の変化とともに、太陽はものすごく私たちの命に直結しています。
幼少期に、宇宙というのはビッグ・バンという途方もない爆発によって生まれたという、児童向けのお話を読んで以来、宇宙への興味は尽きませんが、宇宙は原初的な粒子が水素を形成するところから始まったようです。
それが融合してさまざまな元素を作り、ほとんどは鉄を形成した段階で終わりますが、たまさか、中性子星の衝突などの超巨大なエネルギーによって、鉄以上の重い元素が生成されるのだそうです。
それらの元素が漂っているところに、重力が働いてまた新しい星が形成されることで、この宇宙の星々は形成されるようです。だから重たい希少な金属を地球も含んでいるようです。
もう一つの幼少期の興味としてあったのは、生き物とそれ以外は何が違うかということなのですが、変わっているかもしれませんね。でも、でっかい岩と、木とヒトや犬や猫の何が違うのかはとても興味深いものでした。
動く?とすると植物はどうなる(成長はしますが)。
考える?アリさんやハチさんやカブトムシは考えているのか。などの幼児っぽい妄想が渦巻いているわけですが、行き着いたのは「フン」でした。
宇宙や自然の大きな循環の中の、極小のパートとして、体外から何かを入れて別のものを出すことを、ごく短いサイクルで行うものが生き物なのではないか(こんなきれいな言い回しで思いついてないですが)というのが一つの発見でした。
少し広げれば、食事と排泄だけではなく、呼吸も、光合成も、出産も、胞子や種子の飛散も全部この枠に収まりそうです。
なんらかの自然のシステムの一部として、取り入れて、異化して、産み出す機関(天然製造)だと思って、合点をしていました(子ども心には「ウンコだー!」でしたが)。
気功をやる中でも、重要なことは、入れることよりもまずは出すことです。
気功の場合、運行されない(ダジャレではない 2回目)気は「邪気」「病気」の類いになります。気は循環・運行されて意味を持ちます。
よく「丹田に気を貯める」ような話がありますが、それは貯金箱のコインのように静的に貯まっているのではなく、蓄電池の電気のように動的に貯まっていくわけです。
ここは難しい話になるので、詳しくは語りませんが、まず「邪気」「病気」「ケガレ」の類いを払い除けることが、物事のスタートになります。
※私たちが言う「病気」は東洋の知恵のひとつで、停滞したり正しく運行されない気によってもたらされる状態という概念です。
新しい部屋に住んだらまず掃除をする。新しいカップを買ったら使う前に洗う。
ごく普通のことですが、時に見落としがちになる部分でもあります。
妙見菩薩の聖地として有名な星田妙見宮様でいただけるありがたい霊符に「太上神仙鎮宅七十二霊符」というものがあります。前漢の第5代 孝文皇帝と劉進平先生の逸話でも知られる開運と鎮宅の強力な霊符です。これを拡大して見ていただけるとわかることがあります。
よく見ると「厭」という字がたくさんあることに気がつくかと思います。
現在で開運というと「入ってくる」ことを望みますが、本来の開運は「悪いものを近づけない」ということに眼目が置かれていたのがよくわかります。
武術の逸話にも、本当の達人は「ぶん殴る」ことが最強なのではなくて、「暴力的な場面やシチュエーションに身を置かない」ことにおいて最強といった話が出て来ますが、それも同じです。
さてフンコロガシ(スカラベ)です。
確かにフンコロガシはキレイな玉を作りますが、それにしてもなぜ、彼らの玉転がしが、太陽の運行であったかと妄想すれば、それはおそらく、太陽の賜物としての生き物の根本の仕事である排泄が、さらに土を肥やし、木々や草を育て、という肥沃の循環をも含んでいたのではないかと思います。
つまりは順調に「排邪」「排病気」「排泄」できる状態が、最良への第一歩であり、大基本ということになります。
そんなことを思いつつ、あの歌詞を読むと実に深いし、水木一郎さんの歌は元気が出ます。
※最古の仏典のひとつとされる「スッタニパータ」は蛇の章の蛇の脱皮の比喩に始まるのも興味深いですが、その辺の話はまた後日。
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