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ハングリー・ウーマン 結ver

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 2022年11月22日、午後三時の東京渋谷スクランブル交差点で大勢の人が血を吐いて倒れた。被害は拡大して、東京各地で謎のウイルスによって死者が多数確認された。世間はこの事を「東京血の海事件」と呼んだ。

 行ってきますと東京へ向かった「坂本加恋さかもとかれん」とは小学生からの付き合いで親友。彼女と今、ルームシェアをしている。食べることが趣味の「長田実里おさだみのり」の前には豪勢な料理が用意されていた。ご飯に味噌汁、おかずは鮭という朝食のイメージとは大違い。女性一人では食べきれない量を実里は平らげることができる。両手を合わせて「いただきます」と箸を持った。

 昔から食べることが好きな実里は中学高校と調理部に所属していた。より多く、食と関わる時間を増やすためだ。理由は他にもある。体が太っていく度、母親は実里の健康面を心配していた。そんな実里を心配する母を見た父親は「控えなさい」と実里に強く注意した。食べることは好きなことであり、止めることは出来なかった。自分でもわかっている。目に見えて、自分が周りの女子と体型が違うことに。入学した当初は体型が原因で、男子から嫌な思いをさせられた。それでもやはり、無理だった。他の人にも好きなことがあるように、食に関して絶対に譲れないものがある。
 だから、調理部に入部して健康的な食事を摂っていたつもりだ。

 自分が用意した朝食をガツガツと食べていく実里。いつもは目の前に話し相手の坂本がいて、食べ終わるまで時間がかかるのだが今日はいない。すぐに食べ終えてしまった。何か物足りない気がする。
 実里は冷蔵庫を開けたが、何も入っていなかった。坂本とルームシェアをするにあたって、彼女から複数のルールを設けられた。
 一、食事は一日三食まで。
 一、暴飲暴食はしない。健康的な食事を摂る。
 一、買い物は空腹時に行かない。
 ルールの中で特に重要な三つの約束だった。これは坂本が実里の為に思って考えたものだ。しかし、彼女は三日間東京で帰って来ない。これは自由に動けるチャンスだった。でも、家から近くの店まで二十分ほど歩かなければならない。これも坂本の考えで、近くにコンビニなどの店があるとすぐに食べ物を買うことができる。だから、店から少し離れた場所に家を借りたのだ。
 坂本は我が子のように実里のことを気にかけている。でも、食の為なら二十分ほど離れた場所にも余裕で行ける。口うるさく注意する坂本はいない。
 実里にとって、この三日間はまさに天国である。

 両手が塞がる量の食料を買い込んだ実里は冷蔵庫に詰め込んでいく。一瞬にして中がパンパンになる。坂本が帰って来るまでに消費すれば、バレることはない。そして心配することもない。三日あれば、すぐに食べ切れる。
 スナック菓子とジュースを用意して、気になっていた映画を配信サイトで観るつもりの実里。机に置かれているチラシを片付ける。その中に実里の興味を惹くチラシがあった。

「ラーメン……」

 一面に主張するインパクトあるラーメンの写真。目立つ赤色の太文字は「大食い挑戦者求む」と簡潔に訴えていた。裏面には開催される場所の住所と応募事項が記されてある。参加料は三千円、このラーメン店の価格設定は知らないが四杯ほど食べれば元は取れるか。開催日は明日。ダメもとで実里はラーメン店に連絡し、大食いチャレンジについて尋ねる。

『はい! まだ受け付けています!』

 電話越しに、ハキハキとした元気な男性の声が伝わってくる。実里は大食いチャレンジの参加を申し込んだ。

[2]

 大阪駅近くにあるラーメン店に来ていた実里。この店で大食いチャレンジが開催される。店内にいる客は全員挑戦者である。平日の昼間だからか、挑戦者は成人で男性の割合が多いものの、女性もいた。一番若い男性はおそらく学生っぽい。
 カウンター席の向こう側では準備に急ぐ店員の姿、掛け声が店内に響き渡る。
 テーブル席に座る実里。しばらくして、向かいの席に座ってきた長髪の女性は細身な体型で目が大きく、アイドルのような可愛さを持っていた。ベージュのスーツを身に纏っており、就活生とかではなさそう。でもここに来るのは大食いの挑戦者だけ。もしかして、彼女も挑戦するのだろうか。細身の体型からは想像できない。
 実里は頭の中で巡らせていると彼女から声をかけてきた。

「初めまして。私、児玉華っていいます」

 実里も彼女と同じように自分を名乗る。

「最近、店に来ている感じですか?」

 児玉華と名乗る女性はなぜ、そんなことを尋ねてきたのか。このラーメン店に来たのは初めてで疑問符が浮かぶ実里。

「私はチラシを見て、申し込みました」

 家にあったチラシを持ってきていた実里は彼女に見せた。

「それは来店したお客さんに渡しているチラシなので、最低一回でも来たことがあるってことですよね」

 ということは、坂本が一度でもこの店でラーメンを食べていたのか。たしかに、坂本が働いている古書店は駅近くにあると話していた。
 児玉曰く、挑戦者たちは一度でも店に足を運んだ客で今日の参加者はよく見る顔だと。彼らとは何度か挨拶を交わしていた。その中に一人、知らない顔だったのが実里だったわけだ。

「児玉さんは大食いなんですか?」

 悩んだ末、失礼な質問を投げかけた実里。児玉は手に動きを付け加えて「いえ」と答えた。

「私はラーメンが大好きなだけです」

 常連の児玉は今ある店のメニューを食べ尽くしている。今回の大食いチャレンジで用意されるラーメンは、このイベントの為に作られた特別メニューである。

「だから器もちょっと大きめですけど、一杯分なら食べ切れるかなと」

 イベントの開始時刻が迫る中、慌てて入店する男性。左腕に羽織っていたジャケットを垂らし、ハンカチで汗を拭う。児玉を発見した彼は二人が座るテーブルに寄って来る。

「どうも」

 笑顔で挨拶する彼の姿に硬直する実里。今まで感じたことのない胸の高鳴り、心臓が激しく動いている。
 固まっている実里に「大丈夫ですか?」と投げかける男性。慌てて自分を名乗る実里。児玉と座っているテーブル席に彼も同じく座る。
 イベントの開始時刻となり、挑戦者に運ばれてくるラーメン。醤油ベースで具材がたんまりと盛り付けられている。児玉が言っていた通り、器は大きめ。
 制限時間は三十分と短いが、一杯食べ終えたら次回使えるクーポンがその分貰える。
 店員の合図とともに、挑戦者たちがラーメンに食らいつく。実里も食べ始めるが、気になっているのは目の前にいる男性だ。彼は豪快に麺をすすっていく。隣にいる児玉はいつの間にか、髪を一つに束ね、ゆっくりと上品に食べる。あちこちから麺をすする音が聞こえてくる。
 実里は男性に見惚れている場合ではなかった。この戦いに三千円を賭けているのだ。元は取らなければいけなかった。

 三十分で三杯、三十分で三杯、三十分で三杯。

 今のペースでは明らかに達成できない。これではクーポンを手にして終わってしまう。そのクーポンだって、一杯無料とかではない。結局、元を取らなければ損失である。食で損をしたくない実里と、少しでも悪い印象を男性に与えたくない実里が心の中で葛藤している。
 なんで、彼は自分の目の前に座って来たのか。

「長田さん。箸が進んでいませんが、体調が悪いとか?」

 一杯を食べ終えた児玉が心配して声をかけてくる。言われなければ気づかなかった。自分の手は今、止まっていた。

「無理はしないでください」

 目の前でラーメンを食べ続ける男性が実里に言葉をかけた。すでに二杯目を制していた彼は手を挙げ、三杯目を要求する。
 時間的にこの一杯が限界の実里。理由はそれだけではなく、今は胃に何も入らない。頼んで残してしまうようなことはしたくない。
 男性は三杯目の後、四敗目を食べ終えたところで店員からクーポンを四枚受け取り、店を出て行ってしまった。
 制限時間となり、実里は結局一杯しか食べることができなかった。店員からクーポンを一枚貰う。次回、ラーメン一杯を半額で注文することができる。
 もしや、これが噂の一目惚れというものか。

[3]

 家に帰ってきた実里は一人、リビングにいた。チャットで送られてくる坂本の旅行写真。彼女は推し活を満喫していた。写真に次いで、坂本から「お土産は何する?」と送られてきた。いつもならすぐに欲しいものが浮かぶのだが、今は何も思いつかない。
 坂本のチャットに返信した実里は男性と連絡先を交換しとけば良かったと、後悔の渦に飲み込まれていた。おまけに名前も聞いていなかった。児玉に聞けば、すぐにわかるかもしれないが勇気が必要だった。その一歩を踏み出せずにいた。
 悶々とする実里はソファに寝転ぶ。彼女の体重で圧がかかったソファの軋む音が聞こえる。
 まずはこの見た目をなんとかする。
 実里にとって一世一代の決意をする。ダイエットしようと心に決めた。やり方は危険過ぎる食べないダイエットであったが、今の彼女は正常な判断ができなかった。見えているものはあの男性だけである。恋煩いというものはこの世で最も恐ろしい病気なのかもしれない。

 ただいまと、帰ってくる坂本。彼女はやけに静かな家に異変を感じる。

「どうしたの!?」

 リビングで倒れている実里の姿に驚く。実里はボソボソと「お腹空いた」と口にする。すぐに冷蔵庫を開ける坂本。

「なんじゃこりゃ!?」

 限界まで詰め込まれた食料が雪崩のように、中から飛び出してくる。

「流動食ないけど、固形でも大丈夫?」

 体調が優れず、何も食べれていないと思った坂本はゼリーなどの流動食を探したがなかった。実里がまたボソボソと何か伝えようとしていた。実里の口に耳を近づける坂本。

「ダイエット!? 三つの約束覚えているよね? 食事は三食、健康的に摂る」

 視線を冷蔵庫に向ける坂本。

「お腹空いている時に買い物行ったでしょ? 実里、歯止め利かないんだから」

 ソファに運ばれる実里。体調が戻った彼女に、坂本が理由を問いただす。

「なるほど……で、あのラーメン屋に行ったんだ」
「名前、聞いてないんだけど知らない?」
「毎日行っているわけじゃないからわからないけど、その人の特徴は?」

 男性を思い浮かべる実里。これといった特徴が見つからない。黒髪、スーツ姿、二十代。

「それ……そこらへんにいる男じゃん。早いところ、張り込んだ方が良さそう」

 疑問点は速攻に解決する坂本の癖が出る。今日は夜遅いからと明日、ラーメン店に張り込みすることになった。

 きっと昼時に現れるだろうと、実里と坂本は遠くからラーメン店を張り込む。

「メロンパン?」
「張り込みの定番といえば、メロンパンでしょ」
「あんぱんじゃないの」

 仕事の休憩時間に来た坂本はメロンパンで昼食を済ます。来店する男性を見つける度、隣で彼女が「あの人?」と尋ねてくる。実里は「違う」と何度も答える。
 結局、例の男性は昼に現れなかった。あの店に行ったことのある坂本は次、夕方に客が増えるという。古書店で働く坂本は仕事に戻る。彼女が退勤するまで、実里は時間を潰すことにする。
 そして、坂本の働く古書店に訪れる実里。そこにいた坂本と会話している男性。彼は例の男性だった。

「実里! この人がのぶ……いや、曽根田そねださんです」

 彼は実里を見て、近くに寄ってくる。

「大食いの時の。大丈夫でしたか?」
「あ……はい。大丈夫です」

 あからさまに動揺する実里に察知した坂本。話の流れ関係なく、坂本が突然「お付き合いしている方は?」と曽根田に尋ねる。

「います」

 終わった。違う。そもそも、何も始まっていなかった。
 曽根田は突然の質問に戸惑いながらも、そう答えた。坂本は「ごめん」と口パクで実里に訴える。

「加恋。帰ろう」
「そうだね。では、曽根田さん。また」

 足早に店を出ていく坂本と実里。

 リビングに暴食する実里の姿があった。

「恋愛なんてクソだ!」

 手羽先を豪快にかぶりつく。

「今日はいっぱい食べよう」

 今日だけは、実里の暴飲暴食を認める坂本。実里は気が済むまで、食べ続けた。

[終]

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