「春」のフェルトセンスと宮沢賢治: 100年後の心象スケッチ
「春」(はる)の語源には諸説あるようで、白川静『常用字解』には「寒い冬の間、閉じ込めた草の根」が「日の光を受けてようやく芽を出そうとする」さまをかたちとしてあらわしている、とあった。そもそもの”はる”の語感も、植物の根が「張る」や、農作物を植えつけるために田畑を開墾する、つまり「墾る(はる)」というところから来ているとも言われているようだ。
季節の巡りをあらわす言葉は、植物の振る舞いに語源を持つことが多い。昨年から行なっているフォーカシングのワーク、ボタクロ・シーズンスというワークで用いる十二支も、元々はそれぞれ植物の成長段階を示していた。
春は植物が芽吹く始まりの季節でもある一方、日本においては満開のソメイヨシノがパッと散るさまや、ちょうどその頃が年度の変わり目、区切りの時期でもあるから、どうしても「別れ」のイメージがつきものとなる。
新たな始まりの予感の裏側にある不安。
ひょっとしたらこうだったかもしれないが、
実際には起こらなかったこと。
分かれ道のもう一方、別の可能性。
もう二度と帰ってこない時間。心残り。
春は、一年のうちで最も、複雑な可能性をそのまま含意している季節である。
あんまり聞かなくなったけど、確かに春ほど"エモい"季節はないだろう。
季節の変わり目がいつもどこか切ないが、春はその複雑な可能性が交差して、一層いろんな思いが錯綜する。
春の身体は、新しい季節の環境の変化に呼応して、うずうずとエネルギーが高まりながらも、どこかそわそわと逡巡もする。
状況についての身体的な意味感覚、その「フェルトセンス」(felt sense)は、春には特にグッと際立って感じられる。
その割には、春は年度終わりのゴタゴタや新年度の準備で、何かと忙しい時間を過ごすことが多い。送り出す人にちゃんと挨拶ができなかったり、お世話になった人にしっかりお礼を伝えきれなかったりする。
ましてや、一人でゆっくりと季節を感じるゆとりもなかったりはしないだろうか。
花粉症も相まって、僕自身も春は道ゆく時も早足になる。
空を見上げる余裕もない。
今からちょうど100年前の1924年4月20日。宮沢賢治の最初の詩集『心象スケッチ 春と修羅』(第一集)が自費出版で刊行された。
この詩集には、こんな一節がある。
空を見上げた賢治の身体には、
どんなフェルトセンスが感じられてのだろう。
まだ冷たい新鮮な空気と、賢治の身体が相互作用する。
肺がほの白く空になり、空全体に肺が散らばっていく。
賢治はその春、まさに「修羅」の身体を生きていた。
花巻農学校の名物教員として日々奔走する中、前年には最愛の妹、トシを結核で亡くした。
トシとの別れを謳った「永別の朝」もこの詩集に収録されている。
ジェンドリンが、フェルトセンスの例としてたびたび詩人が詩をつくる様子を挙げているように、詩人たちの言葉の運びはフォーカシング的である。
賢治の「心象スケッチ」(mental skech modified)もまた、その生身に感じられている漠然とした感覚を象る試みとして、同様にフォーカシング的に見える
この春、見上げる空には何を感じるだろう。
賢治から100年後の「心象スケッチ」として、今あなたの身体には、どんな感覚が、どんな言葉がやってくるだろうか。
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