乳粥の味と身体の固有性: 仏教とフォーカシングの交差(2)
2023年の9月2日・3日に鎌倉にて開催されたZen 2.0 conferenceに参加した。イベントやコミュニティの存在自体は以前から存じ上げていたものの、今回はじめての参加だった。オンライン配信もあったけれど、友人の先生方が登壇されるということもあったりで、現地に赴いてぜひお会いしたくなって現地で参加した。鎌倉という土地自体がはじめてで、とてもいいところだった。
今回のテーマは"Be like water". ブルース・リーの没後50年ということもあり、彼の"be water, my friend"からの引用だという。このnoteで一番読まれている記事がリー関連でということもあり、リー好きの自分としてもとても胸踊る素晴らしいテーマ設定だと感じた。
カンファレンスの振り返り自体も丁寧にしたいところだったけれど、とにかく盛りだくさんの2日間であった。ウェブで二度ほど鼎談を機会をいただいた、禅僧の藤田一照さん、ボディワーカーの小笠原和葉さんがスピーカーとして登壇。一照さんは脳科学者の茂木健一郎さんと対談(本当は伊藤穰一さんも来られずはずだったけど諸事情でキャンセル)。和葉さんはゲームAI開発者の三宅洋一郎さんとの対談。とにかく豪華メンバー。何せ、配信機材も通訳の人数も規模が違い、たくさんの企業のスポンサードにより運営されていることもあって、驚きの連続。
現地に行って本当に良かったと思ったのが、会場が北鎌倉の建長寺という臨済宗のお寺であったこと。初日の朝は開場前にだいぶん早く着いたので、境内を散策しお参りすることができた。メイン会場の禅堂の手前、法堂にご挨拶。
法堂に一礼して入ると、まずは見上げた天井に巨大な龍図があって息を呑んだ。とても綺麗で建立750年を記念して描かれたもののようだ。
水神である龍は、天にも昇る存在。"Be like water"は、低きに流れるということでは当然なく、雲のように空へと立ち上るダイナミクスを有しているのが水の特徴だった。会期中も会場の襖絵に描かれた龍をみて、水に思いを馳せることがたびたびあった。
法堂のご本尊は千手観音像であるが、その手前に見覚えのある像がいらした。
「釈迦苦行像」である。
この釈迦苦行像は、ガンダーラ芸術の代表格で、本物はパキスタンの美術館に収められた国宝である。建長寺にあるものは、2005年に開催された愛・地球博の折にはじめて公認のレプリカとして作らせたもので、博覧会のあとにパキスタン政府により建長寺に寄贈されたものなのだそうだ。
学生時代に仏教学の授業を聞いていて、特に印象に強く残ったのが「このお釈迦さまの苦行」の話だった。
出家をして断食や呼吸の制御など、心身を痛めつけるあらゆる苦行を6年も試されたブッダは、ついに苦行では悟りに至れず、修行を続けることを断念される。
まずは身体を清めようと沐浴に川に入るが、上の像のようにガリガリでもう動けなくなった。そのとき、偶然にそばを通りがかった町娘のスジャータが、ブッダに乳粥を施したのだった。
栄養満点の乳粥によってブッダは回復したものの、それを見ていた弟子たちは途中で苦行を投げ出したブッダを指差して「修行者が女性から施しを受けるなどもってのほか、堕落した」と揶揄し、ブッダの元を去っていったのだった。
そんな中でも、決意をもって新たに修行に向かったブッダは、菩提樹の木の下で坐禅をしていて、ついに悟りに至ったという。
このような話だった。コーヒーにいれるミルクのスジャータもこれに由来するというトリビアもこの授業で聞いた気がするが、一番気になったところは、痩せこけたブッダがスジャータの乳粥を食べた時のことだ。
スジャータの乳粥は、どんな味がしたのだろう?
よこしなま大学生の僕は、まずはもちろん「そりゃあずっと苦行していたのだから、さぞ美味かっただろうなぁ」などと想像していた。空腹は最高のスパイスだと
いうし、それはさぞ…などと思ったりもした。しかも乳粥のことを「醍醐」と呼び、醍醐味とはまさにこのことで、当時としてもご馳走だったようなので、やっぱりそりゃあ美味しいかったのではないか。
信念をもって臨んだ長年の修行から降りて林を出て、弟子たちに失望されながら、しかも修業者にとって関わることも避けるべき若い娘に施しを受ける。苦い経験、辛酸を舐める、という表現があるが、とてつもない敗北の味でもあるだろう。とても悲しい味がするような気もする。そもそも、味なんて感じないかもしれない。
授業で聞いて以来、もしもお釈迦さまに、僕のようなものにもお話を伺う機会がいただけるのなら、「スジャータからいただいた乳粥って、どんな味だったですか?」と聞いてみたいと思っていた。ただ、建長寺の朝に苦行像を前で考えていたときには、聞いたとてはたして僕にそれが追体験できるのだろうか、と素朴な疑問が出てきた。
たとえばタイムマシンがあって、僕が当時へと戻り、ちょうど川のほとりでブッダがスジャータからいただいた乳粥を食べている場面に出会して、ブッダに「あの、大変失礼ですが、それってどんな味がしますか?」と聞けたとしても、それがブッダの感じた味と同じとは限らない。
あるいはさらに失礼を重ねて、僕がちっちゃいスプーンか何かを出して「あの…よろしければでいいのですが、それちょっと一口だけいただいても…」とブッダが食べている器からちょっとだけいただいたとする(本当に失礼な話だ。すみません...思考実験です)。つまり、ブッダと同じお椀から、同じ乳粥を食べたとしても、ブッダと同じような味がするとは思えない。
身体が違うからである。端的に、長年にわたる断食苦行の末に、ついに口にする一口の乳粥と、つい先ほどもブラックコーヒーを流し込み、時間が来たのでコンビニで買った昼食も食べたようなこの凡人が口にする乳粥では、ものは一緒でも「味」の質感は全く違うはずである。お釈迦さまと比べるのももちろんおごかましい。凡人同士だって、本当はみんな身体が違うのである。同じものを食べても、同じ味がするとどうやって言えるのだろう。
ちょうどZen2.0でも、藤田一照さんが、茂木さんとの対談の中で「身体性」という言葉への危機感を語っておられた。心理学、哲学、宗教学、そして今や人工知能研究の文脈でも「身体性」は重要なキーワードであるが、身体"性"というかたちで言語化してしまうと、みんな持っている共通の、客観的かつ普遍的なものとしての身体となり、この自分の身体が、交換不可能なこの自分に伴う身体というその「個別性」が抜け落ちてしまう、そこがまずいと語られていた。
身体性は、個別性を抜きにしては語れない。ブッダが食べた乳粥の味は、ブッダにしかわからない。もちろん、僕がもし同じ乳粥を食べたとして、その味もまたブッダにわかるわけではない。それでも我々は、それがわかったような気になっている。このような身体の個別性と普遍性について、とても考える鎌倉の旅であった。
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