毒親のコミュニケーション

人間関係のなかでも、最も逃れがたいものが親と子の関係です。子供が初めて人間的な関係を築くのは親とであり、その関係は人生に決定的に作用します。

良好な親子関係もあれば、上手くいかない親子関係もあるでしょう。そのなかでも「毒親」という言葉で表される、子供を抑圧し過度にコントロールしようとする親のコミュニケーションについて考えてゆきます。そしてそこからいかにして毒親から逃れる事が出来るかを論じてゆきましょう。

では毒親に固有のコミュニケーションとはどの様なものでしょうか。その特徴を人類学者グレゴリー・ベイトソンは「ダブルバインド」という概念で説明しています。ベイトソンは具体例として、次の様な、精神病院に入院している息子と見舞いに来た母親のコミュニケーションを分析しています。

見舞いに来た母親に息子は大変喜び、母親の肩に手を回しました。そうすると、母親はビクッと肩すくめ、嫌そうな顔をした。それを察した息子は手を引っ込めた。すると母親は「どうしたの?私を愛していないの?」と尋ねた。この息子は母親の見舞いの後、症状が悪化し、より精神的に混乱してしまったという。

さて、このコミュニケーションのどこが問題なのでしょうか。それは、このコミュニケーションには正反対のメッセージが混在している点です。

母親は肩をすくめるという身振りで「息子からの好意を拒否したい」というメッセージを発しています。しかし同時に言葉では「私に好意を向けて!」と言っているのです。つまり、この母親は、息子に対して「愛して欲しい」と言うメッセージと「愛してほしくない」とうメッセージを同時に発しているのです。このように矛盾するメッセージが混在している状態をダブル・バインドと言います。

この矛盾するメッセージを受け取った息子は、どうして良いか分からず、混乱してしまったのです。

精神分析家・哲学者のスラヴォイ・ジジェクは『ラカンはこう読め』という著作なかで似たような例を挙げています。

ある親子が、祖父母の家へ向かおうとしている。子供は祖父母の家に行くのを嫌がっている。この場合、親は概ね2パターンの態度をとります。

1:「いいから黙って来なさい!」と言い子供の言うことを聞かず無理矢理連れて行く。

2:「行きたくないの?行きたくなかったら、行かなくてもいいよ。でもおじいちゃんもおばあちゃんも悲しむだろうなぁ」といい、子供が自ら「行く」と言うように仕向ける。

ジジェクは健全なコミュニケーションが1の方であると言っています。なぜかというと、無理矢理連れて行かれた子供は、心の中で「本当は行きたくなかったのに!」と思う心の自由を保つことが出来るからです。

それに対して、2の方の子供は「本当は行きたくなかったのに」という心の自由を持ちません。なぜなら、そのように言うと、親に「あなたが行きたいと言ったんでしょ。私は行かなくてもいいと言ったよね?」と言われてしまうからです。ここにも矛盾するメッセージが混在しています。口では「行かなくても良い」と言っておきながら、実際には「来なさい」と言っているのです。

2の事例の親は、実際には強制であるもかかわらず、見かけ上の選択肢を与えるのです。それによって子供は心の自由を失ってしまうのです。このようなコミュニケーションに引きずり込むことで、子供の心をコントロールするのが毒親に特徴的なコミュニケーションです。

この様な毒親のコミュニケーションからどうすれば逃れられるのでしょうか。

これについて歴史家モリス・バーマンは『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』という著作の中で次の様に述べています。

「学習Ⅲは学習Ⅱについて学習することなのだ。それは自分のパーソナリティの束縛から自由になることであり、かつてウィリアム・ベイトソンが真の教育に与えた定義である。(…)この覚醒は必然的に「わたし」というものの再定義をもたらす。」(モリス・バーマン, 『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』, 柴田元幸訳, 2019, 文藝春秋. p. 276)

簡単に言うと、「ダブル・バインドに陥っている自分とはどのような人間か」を一歩引いた視点から眺めるようになりましょう、ということです。そうすると自分というものを冷静に見つめることができ、これまでの自分から自由になれるというのです。

先ほどの精神病患者の息子の例を考えてみましょう。この息子がダブル・バインドに陥ってしまったのは、自分は「母親に愛されるために、母親の言うことを聞く人間」であるという前提に立っているからです。だからこそ、母親が矛盾する命令を発した時に、どうして良いか分からなくなってしまうのです。

しかし、そのような自分である理由など何もないのです。母親の言うことを従順に聞かなくとも、母親の愛を受け取ることもできますし、それまでとは異なる自分になることで、これまで以上に良好な関係を築く事が出来ることも可能でしょう。

さらに、そもそも母親に愛されなくてもいいと考えることさえできるのです。逃げ場のないコミュニケーションに引きずり込む毒親に対して、そもそも子供は何の責任もないのです。

しかし、近内悠太氏の大変分かりやすい著作『世界は贈与でできている』(2020)で指摘されているように、小さな子供などはそもそも親から完全に自由になることはかなり困難です。バーマンがかなり理想論的であるのに対して、近内氏は毒親の問題は最終的には親という存在からの逃れ難さという点に帰着することをちゃんと指摘しています。

以上のことを踏まえ、最後に毒親のコミュニケーションからの離脱に必要な二つの要素を指摘して終わりにしましょう。

一つは自分はなぜダブル・バインド(毒親のコミュニケーション)に陥っているのかを引いた視線で眺めること。そしてそれまでの自分から自由になること。二つ目に、あたなが毒親に苦しんでいるのは、あなたの責任ではないということを理解することです。

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