『鵼の碑』を読んでいたら科学のことを考えていた件
冬休みの宿題にしていた京極夏彦の『鵼の碑』を読み終わった。
百鬼夜行シリーズの最新作で、前作の『邪魅の雫』から17年経ってようやく発売になった。正直、次回先はもうないと半分諦めていた。
ストーリーについては実際に読んでもらいたいし、いろいろな人がレビューしているので、ここではちょっと違った視点から。
私が読んで感じたことは、舞台は昭和29年(1954年)なのに令和6年(2024年)にも当てはまるような描写がたびたびあったこと。
これは現代のSNSに見られるような思想や意見の分断を端的に捉えているように見える。本文では思想犯や不敬罪との関係で出てきた会話だが、人々の分断という意味では現代にも通じるものがあるし、むしろSNSの可視化によって酷くなっているかもしれない。
SNSといえば、たびたび学校教育や科学研究に対して「役に立つかどうか」という話題が出てくる。これと関係する会話も、昭和29年の物語に出てくる。
本も、知識も、そして研究も、無駄で役に立たないものはなく、役立てる方法をその人が、あるいは人類がまた知らないだけなのだ。役立てる方法が誰にもわからない科学の研究について、人々の目は厳しい。どんな役に立つのか、道楽ではないか、税金の無駄遣いなのではないか、と。最近よく言われるような言葉だけど、どうやらこの作品の中では昭和29年の時点でこういう批判はすでにあったようだ。
本作では、ある物理学の研究が焦点になっている。その研究が役に立つかどうかという範疇を超えて、人類に危害を加えるかどうかというテーマに移っていく。実は、このテーマと通じることが前作から本作発刊までの17年の間で現実世界に起きている。これが偶然かどうかはわからないが、作者がその出来事を意識しながら物語を綴ったのは間違いないと考えていいだろう。
『鵼の碑』は、主に4つのパートに分かれていて、登場人物が断片的な情報を手に入れながら物語が進んでいく。これまでのシリーズと違って派手な事件が現在進行形で起きるわけではなく、過去の不審な事件を掘り下げるようなスタイルになっている。だからこそ、あれこれ想像し、時には確証がないにもかかわらず「きっとこうだろう」と思い込んでしまう。おそらく、本書を読んだ多くの人は、そのトラップに引っかかってしまったのではないかと思う。私は引っかかった。だからこそ、確証が得られないまま納得したり、ましてや他の人に教えたりするのは危険なのだ。
これはまさに科学の姿勢でもある。科学は、理科の授業のような暗記ではない。疑問に対して徹底的に検証し、これより他の可能性はまずないだろうと確信してようやく「解明した」といえるはずである。もちろん、実際の研究は複雑で、確信をもって断言できる範囲は非常に狭く、どうしても「〜〜であることが示唆された」という表現になってしまいがちだ。だが、それは研究者が優柔不断なのではなく「断言できないことは断言しない」という心構えを徹底しているからだ。
この心構えは、研究者は当然ながら、私たちも身につけるべきものだろう。曖昧なものについて決めつけることをせず、曖昧のまま観察を続けるという勇気も必要だ。もちろん、命が関わるから瞬間的に判断せざるを得ない場面など例外はあるだろうが、普段の生活で何かを決めつけてよかったことはあまりない。疑問に対してしっかり検証し、検証できた範囲内で自分(あるいは人類)の知識として獲得するものだろう。
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