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お寺の掲示板 「人は歯車ではない」

先日、僕が住んでいる町の図書館にいくと、『お寺の掲示板』(江田智昭さん著、新潮社)という本をみつけ、読んでみました。
以前から、お寺の掲示板の文章は深く考えさせるものが多いな、という印象を持っていて、興味はありました。しかし、この本を読んで、「お寺の掲示板大賞」なるものが行われていると知り、過去の受賞作品なども調べてみました。その中で特に考えさせれられたものがあります。

「歯車一つ外れれば止まってしまう時計。
 私一人休んでも止まらない社会
 だから私の役目は歯車じゃないんだな」

(2022年、中外日報賞、広島市、真宗大谷派超覚寺の作品)

これは解釈の仕方が複数あると思います。
ふつう、「私一人休んでも止まらない社会」というのは、「私」の無力さを表し、ネガティブな印象で使われるはずです。けれど、一方で「私は社会の歯車だ」という言い方もネガティブな印象がつきまとうはずです。
最初にこれを見たとき、どう解釈していいか戸惑いました。「仏教には縁起の教えがあるし、誰ともつながっていない人などいないではないか」などと愚考を巡らせました。

そうこうしているうちに、ひとつ気づきました。

「歯車は、壊れたら捨てられてしまうではないか」

つまり、時計の中の歯車は、あらかじめ果たすべき役割が決まっていて、その役割でしか価値が認められることはない。
思えば、人間も、学校や会社といった社会的な団体の中では何かしら「役割」が求められることがあります。その一方で、常にその役割を果たすことができるかというとそうではありませんし、永遠にそうした団体の中にいられるわけではありません。いつか必ず、その役割を失うときがきます。
そんなとき、役割でしか自分を見れていないと、深く傷つくことになるでしょう。

ただ、人間と時計の歯車には決定的な違いがあります。時計の歯車は、その役割を失うと、もはや捨てられるしかありません。それに、時計の歯車は自分から歯車になることを選んだのではない。そこに全く自由意志はありません。
しかし人間は、本来そうではないはずです。自分の役割を自分で決めることができるだけでなく、何か特定の「役割」を果たしていない、または果たせなくなったからといって、その人そのものの価値が傷つけられることがあってはならないでしょう。

人間、「役割」の面から評価をされてしまうのは、社会で生活していく上で避けられないことなのかもしれません。その最たる例が、仕事面における「〇〇は使える、使えない」といった言葉だと思います。これは明らかに、人間を「(自分が望む)役に立つ、立たない」という次元でしか見ていません。これは、共同でなにか仕事を成し遂げるという性質上、人間をそうしたものさしで見てしまうのも仕方がないことだと思います。
しかし、こうした言葉に流されると、自分そのものの価値がその仕事に連動しているかのように思えてきて場合によっては深く傷ついてしまいます。
そういうときこそ、人間は歯車と違って自分から価値を生み出していける存在であること、決して一つの役割に縛り付けられるような存在ではないことを思い出すべきです。自分の意識まで「時計の歯車」になってしまわないよう、自分から時計の歯車になってしまわないよう、気をつけたいものです。

と、僕は考えたのですが、皆さんはどうでしょう?



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