身近な伝統から学ぶ(浄土真宗編)
これまでたびたび仏教の話をしてきましたが、みなさんは仏教にどんなイメージを持っているでしょうか。
僕もそうですが、僧侶の方などを除いては、毎日お寺に行く人はいないと思います。また、現在の日本では檀家とお寺とのつながりが崩れつつあってお寺の財政が厳しくなっている、という話も聞きますので、日々仏教の教えを意識して暮らしている人は少なくなっているのかもしれません。それに、日本の公立学校では宗教教育はしてはいけないので、仏教の教えに触れる機会もないまま、かえって仏教に対して難解なイメージを持ったり、自分とは関係ないと思っている人も多いと思います。
ただ、海外には宗教と政治とが深く結びついている国もあり、また、国内外問わず自己のアイデンティティと宗教が深く結びついている人も多くいます。日本においても、特に仏教や神道が日本の歴史・文化と深いかかわりを持っています。そして今は世界中の方が日本を訪れ、文化交流が行われています。今後、ますます多くの宗教に触れる機会は増えるのではないでしょうか。そんな中、宗教への偏見・差別はあってはならないことです。なので、他の宗教を尊重できるようになるためにも、それぞれの人が自分にとって身近な宗教への理解を深め、尊重していく姿勢は必要だと僕は考えています。
僕は別に宗教団体に入るつもりはありませんし、勧誘されても断ります。それでも、自分にとって一番身近な宗教である浄土真宗には愛着がわきますし、個人的に心の支えにもなっています。なので、もし宗教を尋ねられても「自分は無宗教です」と言うつもりはありません。ただ、「仏教です」というと範囲が広すぎるし(宗派がありすぎる笑)、「浄土真宗です」というとそれ以外の宗派からの影響をまったく受けていないことになってしまわないか心配です。僕は禅宗にも興味があって、影響を受けている面もあるので、何とも難しいところですねえ。
お経の内容が気になった
では僕の場合、なぜ浄土真宗に愛着がわくのでしょうか。最大の要因は、父方の家も、母方の家も浄土真宗本願寺派のお寺を菩提寺にしているからだと思います。そういうわけで、幼いころからお経といえば浄土真宗で唱えられるものを耳にしてきました。
しかし、高校生のころまではお経の内容には全く興味を持っておらず、当然意味もわからず、お坊さんが読経する時間を長く感じたものです。
ところが、高校生になると学校で倫理の時間がありました。倫理を選択した人はわかると思いますが、仏教のおおまかな歴史、著名な高僧たちについて習うはずです。そのあとで浄土真宗のおつとめで読まれる「正信念仏偈」(しょうしんねんぶつげ、通称正信偈)を聴いてみると、授業で習った単語がちらほらと出でくることに気付きました。「弥陀仏」、「龍樹」、「源信」、「源空(法然)」、「選択本願」…
これにより、今まで全く意味のわからない言葉の羅列にしか聞こえなかった正信偈も、一気に身近なものへとなっていきました。
自分の死生観との関係
加えて、倫理や日本史の授業を通じて浄土真宗の教義を、さわりだけではありますが知りました。そしてそれは、自分の死生観とも近いと感じたのです。
僕は、「人間死んだらおしまい」というふうにはどうしても思えません。一つは、祖母の臨死体験の話を聞いたからです。祖母は小学生のころ木から落ちて気絶し、意識を失ったそうです。そのとき目にしたという光景が何とも不思議です。
祖母を隔てて川が流れていました。そして、その向こう岸には老若男女が白装束を着て、終わりが見えない坂を上っていくというのです。ただ、その向こう岸は美しい光景だったそうです。祖母はこの話を何度もしていますし、祖母はこういう冗談を話すような人ではありません。結局、川を渡る手段がなくその場にとどまるほかなかった祖母は意識を取り戻しました。
加えて、今度は僕の話です。高校二年の時、僕の祖父が亡くなる数日前、僕は忘れられない夢を見ました。
夢の中。家族一同買い物にでかけた僕らですが、祖父と僕は買い物をする祖母や母たちにはついていかず、二人で待つことになります。そして、どういうわけか、二人で散歩することになります。
その散歩道というのが、周りになにもない一本道で、しかも天気もよく、大変気持ちのいいものでした。しかし、僕と祖父は何も話さず歩き続けました。
しばらくすると、洞窟の入り口のような場所にたどり着きます。そこは、一本道から少しそれた場所にありました。入口の向こうは暗くて何があるかわかりません。けれど、怖くはありませんでした。むしろ、行ってみたくなりました。その入口の前にはベンチがあってそこに座った祖父。僕に対して一言「ここまでついてきてくれてありがとう」。
すると、なぜかここにほかの家族があらわれ、僕だけ呼び戻したのです。祖父の存在は忘れられているかのようでした。夢も、ここで途切れています。
以上のことは、記憶が正確でない部分もありますが、フィクションではありません。僕はときどき、あの洞窟の向こうは何だったのか、と考えます。この夢をみたときは祖父はすでに意識がはっきりしていませんでしたし、会話できる状況ではありませんでした。数日後祖父はなくなりましたが、あの洞窟を抜けたのでしょうか…
ただ、確実に言えるのは、こうした経験があったからか、「自分は死んだらどこか別の世界に行くんだな、そしてその世界は恐ろしい場所ではない」という意識が僕の心に根付いていることです。
そしてこの意識があるからこそ、極楽往生を説く浄土真宗の教えを抵抗なく受け入れられているのだと思います。
まだまだ書きたいことはありますが、長くなったので次回以降に回します。
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