報われない人としての生き方
「努力が報われない」とは
努力をしているのに、なかなか報われないことがある。すると、本当にこのまま続けていても良いのか、諦める時期を決めた方が良いのではないかなどを、悩み始めてしまう。その際に、同じ年齢や同じ期間での同じ道への挑戦において、自分よりも活躍・成功している人が目につく。彼らがなぜ活躍できるのかを考えると、単に努力をしているからよりも、自分に備わっていない能力を既に身につけている場合が多いと考えてしまう。その物事に対するセンスや努力できる才能、その道において優遇されるような特徴など、もはや天から与えられるようなもののおかげで活躍できていると感じるのだ。彼らを見ていくうちに、彼らと共に立っていたスタートラインは、全くもって横並びなんかではなかったと気付かされる。
彼らは、いわゆる才能を持っている。才能の差によって、彼らと同じ努力をしたとしても、我々が追いつくはずもない。また、彼らよりも努力したとて、努力による成長にも限界があり、結局は才能がカバーする範囲の広さによって、無意味と化すこともある。自分が報われない理由として、そんな才能のある人間たちが自分を押し退けていることは、強い他責思考である一方で、現実的な考えでもあろう。
また、「活躍している人間は才能によって活躍できている」ことを理解せず、活躍している人に関して彼らの努力だけが要因だと目につき、「彼らのように努力すれば活躍できるかもしれない」と、間違った思考に陥ることがある。そうすると、活躍する彼らの持つ才能(我々はそれが才能だと気づいていないが)を入手しようと、無駄な努力をすることになってしまう。その結果、頑張った後の自分と期待した目標としての自分との間に、大きな乖離を感じることになる。「努力をしても報われない」とさらに強く感じてしまう。
つまり、才能による差は埋めることができずに淘汰される、また後天的にそのような才能と同じレベルでその能力を取得することはほとんど不可能であり、誤った努力が生み出されているかもしれない。「努力をしても報われない」状況には、このような才能が作り出す差が存在していると考えることができる。もしかすると、どれだけ頑張っても無理なものは無理なのかもしれない。
こう考えると、才能がない中で努力した人は、その人たちのようには活躍できないことになってしまう。
成功や活躍の本質
私は、どんな成功の原因にも、"運"があると考える。才能も関係するだろうが、それよりも強く影響していると考えている。どれだけ才能があっても、運が悪ければ成功はしない。例えば、勉強ができても、より優秀な人間が同じ志望校を受験すれば、おそらく不合格となり、得意の勉強が活かせないことになる。運が悪いだけで、どれだけ才能を持っていたとしても発揮することさえできない場合があるのだ。つまり、如何に運を味方にするかが活躍の条件になりそうな気がする。今自分と同じ道で活躍できている人は、偶然そうなっているだけであり、マルチバース的に住んでいる次元が異なれば、その人は活躍できていないことは容易に考えられる。つまり、「才能がない」とは、その道におけるその瞬間限定の話であり、より広い視点を持ってみると、自分にも「才能がある・発揮できる」瞬間が訪れる可能性があるのだ。これを運で掴んでみることだけが、才能がない我々が成功できる唯一の方法なのではないか。
ここで、「運は自分には左右できないものだ、諦めるしかない」と思われる方もいるだろうが、ここでの運の意味合いは、そのような強い意味ではない。もはや、「不確実だが確実に手繰り寄せることができる」、そんな希望のあるものだ。運を手繰り寄せることに対して、まずは楽観的に希望を抱きたいところである。
さらに、才能がある人もその運を探すことができるから、我々才能がない人が運を探しても、彼らに奪われて意味がないことがあり得るではないか、という反論があるだろう。しかし、前述した通り、現時点で才能があると見える人は、その場所やタイミングで偶然才能があるだけで、他の場所で才能があるかはわからない。つまり、ある場所で才能がない人が他の場所で活躍できる時、同じ場所で才能があった人が、他の場所では活躍できない可能性があるのだ。すなわち、ある場所で才能がなくても、才能があって活躍できる他の場所を探し続けることが、不条理な人生に対する、我々にできる唯一の対抗手段なのだ。
才能のない人がすべきこと
才能がない我々がやるべきことは何かについて、少し考えたいと思う。しかし、私は自己啓発が大の嫌いで、自己啓発本を読書と表現することが許せないような人種である。そのため、何をすべきだ!とは語りたくないのだが、現実的な希望を持つために、1つ大事なものを語るのであれば、「自分の素直な好奇心をもとに選んだ、他の環境に手当たり次第に挑みまくる」ことだ。特に受験生なら、金銭的な余裕があるのであれば、受ける大学の志望学部を広範囲に広げることで、才能が発揮できる場所か否かは別として、その大学というブランドを手に入れる可能性が高くなるはずだ。このような感じで、何か手当たり次第に目指した環境に挑むことには、少しばかり価値があるかもしれない。さらに無謀にならないためにも、好奇心をもとにしていることも大事な点である。
このように、特に、才能がない人の本質を見てきた。才能がなくて落ち込んでる人がいれば、少しばかり参考になるかもしれない。才能がある人間に勝とうという気持ちは、時には大事だが、現実的ではない。それなら、自分も才能がある人間になってみたいものだ。
あとがき
人生において、どうしても他人と比較してしまう時は訪れます。それが無意味だとわかっていても、どうしても、してしまうんですよね。この記事は、私と同じようなことを考えている人に向けて書きました。
才能がなくて辛いですよね。もっと言えば、それを自覚することが辛い。でも、あなたはあなたにしかない才能があるはず。それは人生をかけても見つからないかもしれません。でも、探してみる価値は、少しばかりあるのではないですか。
記事内における「成功や活躍の本質」は、才能というあまりにも残酷なものでそれらが決まってほしくないと、そう願って綴りました。この記事から、皆さんが持つ人生に対する「辛さ」が、少しでも緩和されれば幸いです。
才能がある人間に、なってみたいものですね。
それではまた、夢でお会いしましょう。
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