モーリス・ブランショ『焰の文学』(2)─文学の意義とカフカ論、無限に転移する腫瘍─【3103字】
Ⅰ)実存の消滅
『無限に転移する腫瘍』という表題は、私が『焰の文学』を読んで個人的に感じた言語の性質です。こう考えたきっかけとしては前回記事(←移動できます)の言葉の数々の影響が強く、中でも以下の文章、
文学は自分自身の目的に向かって、自分を追い抜くことがないのを知っている。それは巧みに逃れて騙されない。それは消えるものを絶えず現れるようにする運動だということを知っている。それが命名するとき、それが指し示すものは抹殺されるが、抹殺されたものは保たれている。そこで物は(語という存在のなかに)威嚇よりも避難所を見出すのだ。
『焰の文学(文学と死ぬ権利)』 〈416頁〉
というのを読んで「なるほどな」となりました。この「なるほどな」と感じたことにも理由があって、これまた最近読んだ本の中で気になっていた言葉があり、その言葉の理解を深めることにつながったからでした。その言葉が以下。
わたしは消滅するだけでよい。そうすれば、わたしが踏みしめる大地、わたしが潮騒を聴く海……と、神との間には、完璧なる愛の合一が存在するだろう。
『重力と恩寵(岩波文庫)』 〈81頁〉
ここだけ読んでも大抵の人はわからないとは思いますが、要するに《我》の存在の消滅が恩寵を受け取るためには必要であるとし、生の苦しみ、あらゆる受難を受け入れることではじめて《真の歓び》を感じることができる、ということを主張しているように解釈できます。
これに関連してヘルマン・ブロッホの『夢遊の人々』において信仰に関する話の中で、「自分の名で家を建ててはならない、息子がその家を建てなければならない」ということが述べられていて、これは《主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい(『旧約聖書 詩篇』127章–1)》に対する言及であると思われますが、『重力と恩寵』もこの文言の解釈を述べているのだと思います。
以上を踏まえて、『焰の文学』における《消えるものを絶えず現れるようにする運動》の《消えるもの》とは、我という存在の消滅による《完璧なる愛の合一》の実現であり、《神の恩寵》《真の歓び》を獲得するための手段となる性質であると思われます。これを目的として言葉は書かれるのだとブランショは考え、つまり文学は我という《実存の消滅》を行うために書かれているということができます。では次に、《絶えず現れるようにする運動》とはなんなのか、ということを考えていきます。
Ⅱ)実存の転移
《絶えず現れるようにする運動》という言語の性質は以下の文章によってい説明されています。
言語は沈黙によって実現されない。黙ることは自己表現の一つの方法ではあるが、その不当さがわれわれをまた言語のなかに投げかえすからである。さらにその上に、言語の内部で語の自殺が試みられなければならない。この自殺は語につきまとっても果たされないから、白紙のページへの誘惑か、意味を失った言葉の狂気に語を導くことになる。だがこれらの解決は幻影である。言語の残酷さは、それが自己の死を絶えず呼び起こしながらけっして死ぬことがないところからくるのである。
『焰の文学(カフカと文学)』 〈29頁〉
こうした書き手の《語の自殺》への欲求、《白紙のページへの誘惑》《意味を失った言葉の狂気》こそが《絶えず現れるようにする運動》なのだと述べているようです。そもそも《言語は沈黙によって実現されない》というのは言語は沈黙を求めるものという前提に成り立っていて、この《沈黙を求める》は、我という存在を消滅して恩寵を獲得することを指していると考えられます。
しかし、ブランショは《これらの解決は幻影である》と切り捨て、これを《言語の残酷さ》《自己の死を絶えず呼び起こしながらけっして死ぬことがない》と断言しています。
ではこれはどういうことなのか? まず、言葉は書かれること(本にすること)で実存を得る、ということができると思います。それを踏まえて例えば、現実に存在する《ある男》を言葉で《ある男》と表現したとき、《ある男》という実存は《ある男という言葉》によって隠されます。ただこれでも《ある男という言葉》が想起する概念としての《ある男》の存在は避けられない。《ある男》は《ある男という言葉》として新たに実存を持ってしまう。なのでさらに《ある男という言葉》を物語の中で《虫》に変身(転換)させ、《虫という言葉》によって《ある男という言葉の想起する実存》を隠そうと試みます。ただそれでもやはり書き手にとっては《虫》がはじめの《ある男》を想起させることは免れえず、さらにまた《虫》に続く言葉/物語を綴って《虫という言葉に含まれる概念的実存》を隠そうと試みる。しかしこれを延々と続けても著者の中の《ある男》は別の言葉の中にその《実存を転移》し続け、《ある男》が消え去ることは決してありません。
こうした作業、実存をある言葉で隠し、その言葉の上に転移した概念的実存をまた別のある言葉で隠していくという作業、ここにおける実存/概念隠しが《語の自殺》《避難所》であり、その繰り返しが《消えるものを絶えず現れるようにする運動》なのでしょう。これをブランショは《自己の死を絶えず呼び起こしながらけっして死ぬことがない》《言葉の残酷さ》であると表現しており、私は《人間を苦しませ、その除去を試みても転移を続けてなくなることのない腫瘍》《無限に転移する腫瘍》のようだなというイメージが思い浮かんだため、こうした題にしてみました。
Ⅲ)文学の意義
それでは、どれだけ言葉を続けても決して目的にたどり着くことのないこの終わりなき絶望的な営み、すなわち文学には意味がないのでしょうか? 当然こうした疑問が頭に浮かび上がってきます。しかし、ここにこそ文学の決定的な矛盾があり、文学の意義が立ち上がってきます。
上記に述べてきたことから考えてみるに、文学は《実存の消滅》を目的として書かれており、しかしこの目的は《実存の転移》のせいで永久に達成されることはないように思われます。それは否定することができません。しかし、この目的の達成に限りなく近づく瞬間があります。それこそが実存(言葉)の《消滅と転移の瞬間》です。言葉が殺され、代替となる言葉(実存)がまさに生まれるその間隙にこそ、文学が絶望的な営みの中に求めるものがあるのです。そしてこの《瞬間》にこそ、絶対的に読者が言語化できない《沈黙の言語》があり、その魔術的な神秘性が文学の魅了となっているのでしょう。
こうした考えから想起されるのはやはりカフカ作品です。彼の作品の主人公は自分の存在を呪い、絶望しながらもそこにとどまり続けます。『変身』では毒虫であることを彼自身が拒絶することは決してなく、『城』では測量士であることを決してやめようとはしません。その存在であることで受難し疲労困憊の体になりつつも、もう一方ではそうした自己の存在を完全に享受していることがわかります。カフカにとって、物語はその絶望下《生と死の狭間》にとどまることこそが目的であり、存在を決定づける物語上の解決は避けるべきものだったのでしょう。純粋な行為の中に実存(思考)を隠蔽することができればこのような絶望下に希望を求める必要はなかったのでしょうが、たぶんカフカは何をしていても言葉(思考)が頭に溢れ、己の実存から逃れることなど決してできない人間だったのでしょうね……。
以上がモーリス・ブランショ『焰の文学』の個人的な解釈となります。お付き合いいただき本当にありがとうございました。