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▶【短編小説】 グモッチュイーン
『本日午前7時16分、X駅のA線ホームにて人身事故が発生しました』
通知に来ていたニュースをタップすると、そこに表示された駅は、西野絵里が今まさに向かっている駅だった。彼女はマナー違反であるのを承知の上で、歩きながらスマホを覗き込んでいる最中だった。彼女は俯いたまま、徐々に大きくなっていく歩行者の流れの中を器用に泳いでいく。
上京する前は歩きながらスマホを触る理由や、そんなことをする人間の神経が理解できなかったが、東京で働き出すと環境の影響からか彼女も何の気兼ねもなく歩きながらスマホを触っていた。その行いを咎める人もいない。
スマホの画面に映し出されたその人身事故のニュースを素早くスクロールしていると、向かい側から歩いてくるサラリーマンとぶつかりそうになって、急いで進路を変えた。
東京に来てから、前をあんまり見ていなくても何となく人のやって来る気配を感じるようになったが、おそらく無意識的に訓練された結果なのだろう。これは人の多い都会では意外に必須なセンサーなのかもしれない。
また、たとえその人間感知センサーがエラーを起こし、人とぶつかってしまったとしても、「すみません」と一言言えば大事にはならない。相互不干渉。それが東京の人々のモットーである。
しかし、人と電車の場合はそうはいかないようだ。
人と電車がぶつかったら、電車の速度にもよるが高い確率で人は死亡する。あったかい内臓が線路にぶちまけられ、外気と大衆の目に晒される。
そして人が死ぬだけでは済まず、鉄道側にも多大な損害が生じ、他の利用者も電車の遅延や運行停止のせいで動揺し、駅内は混乱の渦に呑み込まれる。
人身事故の原因は、人間側の単純な不注意のせいもある。しかし、他の原因として考えられるのは、電車が自殺のための道具として使われるせいということだ。タイミングを見計らって足元に敷かれた黄色い線の内側を3歩も歩きさえすれば、走る電車が勝手に轢いてくれる。格好の自殺手段だ。
彼女は心底思う。
そういうのは、迷惑極まりない。
彼女は人身事故のニュースを閉じると、心の中で深いため息を吐き出し、それを道の真ん中に置き去りにして、引き続きすたすたと駅へ向かう。
駅の改札へと続くエスカレーターに乗ったとき、「そういえば」とトートバッグを担ぎ直しながら彼女は思い出す。自分がいつどんな場面で知ったのか、今となっては思い出せないのだが、電車の人身事故にはしばしばネットスラングが使われるらしいということを。
それは「グモッチュイーン」という言葉だ。
真偽のほどは分からないが、電車が人間に衝突したとき「グモッチュイーン」という大きな音が鳴り響くため、そういうスラングが生み出されたという。
その擬音語の中には、肉が潰される音、骨が砕ける音、血が飛び出る音、人間の身体がその原形を破壊される過程に発される音がすべて凝縮されているのだろう。それをネット上のスラングとして仕立て上げ、使用し出すところに、人間のグロテスクな業のようなものを感じざるをえない。
『この度の人身事故により、A線のみならず各路線において、大幅な遅延または運行停止が予想されます。お客様の皆さんには多大なるご迷惑をおかけしておりますこと、誠に申し訳ございません』
西野絵里がX駅の改札口に到着すると、既にそこには数多の人々で混雑していた。上部の電光表示板には、遅延や運行停止を知らせる赤い文字がいくつも表示されている。
アプリで経路を調べてみるも、案の定、彼女が乗ろうとしていた路線は1時間ほどの遅延が見込まれていた。振替輸送で職場まで行こうと考えたが、いずれにせよ遠回りになって定刻通りに出勤できないことは確実だった。
一瞬、タクシーという選択肢が浮かぶものの、運賃のことを考えるとわざわざそんなに慌てて移動することもないではないかと腰が据わった。
彼女は落ち着いて職場へと電話をかけ、人身事故により出勤が遅れる旨を上司に伝えた。
とりあえず待ってみようか。
しかし、被害者が発見されるまでこの路線は動かないのではないか?
ため息を吐く。
もう一度、スマホのニュースを確認する。
『目撃者によると今回の人身事故の被害者は突如、レールの上に現れ、すぐさま電車と衝突したとのこと。現在、被害者はY病院に搬送されました。容態は重体です。詳細については調査中です』
突如レールの上に現れた?
そんなことありえないのではないか。しかし、駅のホームであれば、数多の人々がいたはずだ。彼らの目線をくぐり抜けることなどできるのだろうか?
しかも、この駅には落下防止のためにゲートが設置されている。線路に落ちるためにはこのゲートを乗り越えなければならない。そんな大胆なことをして誰にも見られなかった、というのはやはりおかしいと考えられる。
彼女は頭の中で渦巻くモヤモヤを鬱陶しく思いながら、駅の中にあるカフェに入り、モーニングを頼んだ。すでに席を埋めていた学生やサラリーマンは、こわばった顔でスマホと向き合っていた。駅全体が騒がしいせいで、カフェの中でさえ、落ち着かない雰囲気が漂っていた。
最悪の朝である。在宅ワークができれば、今日こんなトラブルに巻き込まれることもなかったのに、と独り言を放つ。
彼女は無糖のブラックコーヒーをすすりながら、適当に時間を過ごしていた。腕時計を見る。人身事故が起こってからそろそろ1時間だ。運航再開していてもおかしくないのではないか。
彼女はふとカフェのガラスに目を遣り、外で歩き回る人たちの様子を見る。
違和感に気づいたのはそのときだった。何だろう?何かが変だ。何か変な現象が起きている。
彼女は目を凝らして、集中する。
子ども?
そうだ、小さな男の子が地面に座っている。地面に座って何かしているようだ。そして行き交う人たちはその子どもに全く気づいていないのだ。東京の人々がいくら他人に無関心と言えども、地面に座っている子どもがいれば一瞥ぐらいはするだろう。
迷子だろうか。彼女は少し腰を浮かせる。
いや、きっと親が近くにいる。誰かが助ける。
と、思ったが、その子どものことを見て見ぬふりをしてしまえば、さらに今日が不愉快な日になってしまいそうだった。
彼女は会計を済ませ、カフェの外に出る。人々の群れを掻き分け、子どもの元へ進む。近づくにつれ、その子どもが何をしているのかだんだん見えてきた。
その子は電車のおもちゃで遊んでいるのだった。
小さいプラスチック製の電車を、地面に敷いたレールの上で走らせている。なぜこんなところで?子どもは口角を上げて楽しそうな顔をし、下を向いていたが、何も声は出していなかった。
彼女は子どもの側まで近寄ると、身をかがめてゆっくりと話しかけた。
「ねえ、こんなところで何してるの?」
男の子は手を止め、絵里を見上げた。が、何も答えなかった。彼女は微笑みながら、再び話しかける。
「お母さんとか、お父さんはいないの?」
男の子はまたもや答えずに下を向いて、おもちゃを遊び出した。彼女はどうすればいいか分からず、戸惑った。歩いてくる人々も彼女の方を見ると、不思議そうな顔をして通り過ぎて行った。彼女の顔はほてり出した。
もう諦めて行ってしまおうかと彼女が思ったとき、男の子の声が下から聞こえた。
「お母さんは出てった。お父さんのせい」
「……お母さんもお父さんも、ここにはいないのね?」
「うん」
彼女は男の子の肩に手を置いて言った。
「一緒に駅員さんのところ行こっか」
「いや。ここから離れたくない」
男の子はプラスチック製の電車のおもちゃを宙に掲げた。
「これからグモッチュイーンするんだもん」
「ん?なに?なにをするって?」
「だから、グモッチュイーンだよ。お姉ちゃんも見る?」
彼女は混乱した。この子はいったい何を言っているのだろうか?
グモッチュイーン?それはあの人身事故のスラングのこと?そんなわけないか、いやでもグモッチュイーンなんて言葉が指すものなんて他に……
「お父さんもグモッチュイーンしたんだ。そしたらどっか行っちゃった」
「どういうこと?」
男の子はポケットからジャラジャラとたくさんの何かをつかみ取った。それは小さい人型のおもちゃだった。多分電車のおもちゃと一緒に使うものだろう。
「お父さん、いっつもいやなことしてくるから、おもちゃの一つをお父さんってことにしてね、この電車でこらしめたんだよ、こんな感じで」
子どもは「グモッチュイーン!」という掛け声とともに、持っていた電車のおもちゃを思いっきり宙で走らせた。
絵里はもはや微笑みも消え失せた様子で、恐る恐る尋ねた。
「……それでどうなったの?」
「えっとね、なんか電車にぶつけたらお父さんいなくなっちゃった」
彼女は鞄からスマホを取り出し、さっきこの駅で起きた人身事故について急いで調べてみる。
『人身事故の被害者であるE区在住の佐伯富弘さん(42)さんは病院へ搬送され、集中治療が行われましたが死亡が確認されました』
死亡……
「……ねえ、お父さんの名前、分かる?」
「うん、トミヒロだよ。お母さんは昔トミーって呼んでたみたい」
彼女は口を開けたまま、足に釘を刺されたようにその場から動くことができなかった。
「きみの名前はなんて言うの?」
「ぼく?マサキだよ」
「マサキくん、やっぱりここで遊ぶのは他の人たちもいるし危ないからさ、一緒に行こ?」
マサキは彼女の目をしっかり捉えてニコリと笑った。
「変なこと言うなあ、お姉ちゃん」
「え?」
「ここ、僕たち以外誰もいないじゃん」
彼女は目の前の子どもが何を言っているのか全然理解できなかった。しかし、他の情報によってそれはすぐに理解できた。
「……あれ?」
絵里たちの周りには誰もいなかった。
さっきまであんなに混雑していたはずなのに。静寂。世界中から人間が消えてしまったように静かだった。
「どうなってるの……?いっぱい人いたのに」
「もともと人なんていなかったよ」
「え?そんなことは……」
彼女は後ずさりし始める。何が起こっているのか分からない。そしてこの子ども絶対におかしい。早く逃げなくては……彼女の脳に強い信号が送られる。
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
「どこって……ここから出る」
彼女は辺りを見回す。出口はどっちだっけ?
「ダメだよ、まだ一緒に遊ぼうよ。お姉ちゃんいなくなったらさみしいよ」
「それ以上話さないで。私、早く行かないといけないから」
「お姉ちゃんのおもちゃはこれね」
「え?」
マサキの手元を見てみると、女性の形のおもちゃがあった。
「お姉ちゃん急いでるんだったら、グモッチュイーンして行きたいところに飛ばしてあげる」
「やめて!」
マサキはレールの上に電車を置き、前の方に人型のおもちゃを置いた。とてもうきうきしていた。そして電車を滑らせて、「グモッチュイーン!」と言いながら、人型のおもちゃにぶつけた。
彼女はマサキの元へ駆け寄ろうとしたが、次の瞬間、彼女は線路の上にいた。
彼女は背後から迫り来る電車に気づくも為す術はなかった。駅には凄まじい音が響き渡った。
「グモッチュイーン!お姉ちゃん、ちゃんと行けたかな」
男の子はずっと遊び続けていた。
『本日8時38分、X駅にてまたもや人身事故が発生しました。被害者は西野絵里さん(25)。現在、病院に搬送されましたが重体。警察とA電鉄は先の事故との関係性についても調査中です……』
■ 【record.28】