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潮騒の寝息


渚の家に住む白濁の瞳の青年は、潮騒の響と共に眠りつく。

青年の傍らにはいつも大きな犬がいた。名はアオメ。青い目と書いてアオメと読む。アオメは嘗ての主人にこう言われた。「アオメ、貴女が目になるのよ」意味ではない、その言葉の響きが、アオメを青年の生涯の友であることを運命づけた。

アオメは青年の掌が好きだった。骨張って、細長く、それでいて柔らかい肌がアオメの首根を包み込む度にアオメは言葉を無くすのだ。自身の温もりが主人の掌を温めるように、主人の冷たい掌が、アオメの沸き立つ不安を冷やしこんでくれたから。青年とアオメはいつも熱を循環させていた。

青年はアオメを愛せなかった。アオメはいつも青年の眠りを邪魔するから。だから青年はアオメを避けて生きてきた。同じ家の中で、渚にて、潮風の中で、青年はなるべくアオメに触れぬ様に生きてきた。アオメの輪郭を知る度に、青年は眠りから遠ざかる。それが本意では無かったのだ。

青年はいつも日に焼けたシャツを着ていた。アオメはいつも丸裸だ。渚の住人は青年を指さしてこう言う。「何本だ」アオメはいつもそれに答える。「ワン」言うと住人はケタケタ笑い、青年は些細な努力と共に少しだけ口角を上げるのだ。

アオメは夜、青年の側で眠る。青年は開け放した窓から吹き込む潮の香りを嗅いで「あぁ、今日も眠れなかった」そう呟く。そして長い瞬きを経て朝を迎えるのだ。朝の知らせはいつも、柔らかなアオメの温もりだった。

ある日、青年は一通の手紙を受け取り、海で眠ることに決めた。夜の静寂が揺らめき、水面の煌めきが揺蕩う、美しい夜だった。少なくともアオメの目にはそう見えた。青年は生まれたままの姿で、一度の長い瞬きを経て、ゆっくりと眠りに向かい歩いて行った。アオメはその姿を黙して見送った。歩を進める度に青年は自身の価値が、意義が、境界が少しずつ茫洋な海に溶けていく感覚を味わった。青年は呟く「おやすみ」直後だった、眠りの鋭利な指先が青年の心に触れたのは。青年は硬直した。途端に曖昧になっていた生命の輪郭が明瞭に感ぜられた。眠りの指は次に青年の目に触れた。耐えがたい痛みだ。青年は途端に怖くなった。青年が叫声を上げる間もなく、眠りは掌を広げ青年の足首を掴み、茫洋な眠りの海に引きずり込んだ。足掻けど藻掻けど眠りは青年を離さない。青年はただ恐怖の儘に身体を動かした。されど眠りは青年が考えていた以上に残酷で強大で、恐ろしいものだったのだ。そして青年は。

青年は目覚めた。生まれたままの姿で、渚にて、冷たいアオメの温もりを目覚ましに。青年は軋む身体を動かして、アオメの鼻先に触れた。湿った空気がそこに循環していた。「眠れなかった」青年は呟いた。「でも、目が覚めた」青年はアオメの身体を包み込んだ。自身の温もりがアオメの身体を温めるように。アオメは眠りながら幸せを感じた。青年はその幸せを感じて、涙を流した。

潮騒の寝息



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