「希死念慮は明日の向き」③
放課後だんだんと人が少なくなっていく中、僕は着席を続けた。帰るクラスメイト達は、皆一様に僕を横目で見るだけ見て教室を出た。教室の前方にいる藤代さんは僕と同じく着席を続けている。
「藍、帰んないの」
「うん。ちょっとやることあって」
教室に二人だけになった頃、椅子と床の擦れる音が響いた。どきりとした僕は慌てて下を向いた。足音が近づいてくる。いじめが終わりを迎え、藤代さんと話すことが出来るなんて。まるで天国のようだった。清峰さえ居なければ。
彼は窓際に肘を突き、僕らの様子を眺めていた。何を言われても黙殺しよう、僕はそう決め込んだ。
「ありがとう、綿貫くん」
荘厳な海に揺蕩う波のような玲瓏な音が僕に触れた。真正面からの藤代さんは初めて見たときと変わらぬ美しさに溢れていた。ビー玉のような瞳は、祭りの花火に照らされればさぞ綺麗だろう。
「そして、ごめんなさい」
彼女は頭を下げ、謝罪を口にした。本当にその言葉を発すべき人間は近くにいるというのに。
「えっ、どうして謝るの」
僕は慌てて立ち上がり、率直な思いを述べる。
「どうしてって、当たり前じゃない。清峰くんが亡くなったのは悲しいことだけれど、それで今までがなかったことになるわけじゃない。傍観してた私も同罪だから」
恐らく、彼女の強い正義感から来るものなのだろう。純粋に嬉しかった。清峰をちらりと見たが、表情を変えてはいない。
「そんな。わ、悪いのは清峰だよ。確かに人が死んだのを喜べはしないけど、僕はいじめられなくなっただけで平気だから。藤代さんが謝る必要は無いよ」
藤代さんはばつの悪い表情をしていた。ぎこちのない笑顔が張り付いている。水色の髪留めが顔色を悪く見せているのかもしれない。
「綿貫くんは優しいんだね」
「べ、別に普通だよ」
彼女は伏し目がちになった後、意を決したように話し始めた。
「綿貫くんが急にいじめられ始めたとき、びっくりしたのを覚えてる。あまりの過激さに正直見てられなかった」
僕は彼女の独白をそのまま聞き入れた。
「先生に何度も掛け合ったの。けれど聞き入れてもらえなかった。綿貫くんに直接話そうとか清峰くんに直接話そうとかも思った。けど、怖くて実行出来なかった。それで段々と、見ているだけの存在になってしまった。言い訳よね」
クラスのみんなに見放されても、彼女が居るから耐えられた。その彼女はみんなと違う考えを持ち、僕の為に動いてくれていたのだ。こんなにも僕のことを想ってくれていた、その事実が何よりの喜びになった。
「ほんとに、僕はもう大丈夫だから。逆にこっちがありがとうっていうか」
変な言い回しになってしまった。
「ふふっ何それ」
肩の荷が降りたのか、彼女は笑った。もう死んでもいい。そんな気さえする、美術品のような輝きを放っていた。
「なんだか、クラスメイトなのに話すのが久しぶりっていうのもおかしい話」
藤代さんとは小学校の頃から一緒だった。初めて同じクラスになったのは小学三年生の頃。その頃から彼女を目で追っていたように思う。
「最後に話したのはいつだっけ」
「中学では今が初めてだから五年生の頃じゃない?」
中学一年ではクラスは異なり、現在のクラスで同じになったのだ。僕のいじめが始まったせいで話す機会が無かった。彼女が昔のことを覚えているのは驚いた。
「覚えてるの」
「ええもちろん。おかしなこと聞くのね」
もう清峰のことなどどうでもよかった。今までの悲惨な過去も、渦中に身を置いている現状も気にならなくなった。自分は人生の転換期を迎えたのだ。有頂天にもなる。
目の端に映る清峰が動いた。何か言うつもりなのだろうか。すると、どたどたと複数の足音と共に話し声が聞こえてくる。大きなそれは、聞き馴染んだものだった。
「えっ、嘘でしょ」
藤代さんは動揺していた。足音が隣の教室まで来ようという時。
「隠れて!」
僕は藤代さんに手を引かれた。彼女は強引に教室の後方にある掃除用具入れまで駆け寄り、僕と身を潜めた。話し声は教室の中に入ってきた。
「あれ。綿貫帰った?」
「残ってるって言ったの誰だよ」
「おーいー」
「てかそんなんいいからさっさとケータイ取れよ。早く帰ろうぜ」
清峰の取り巻きである六人だった。清峰は同じ教室内にいる。
「いやーもう冬休みかー」
「それ。宿題やらせる奴見つけねーと」
忘れ物を取りに来たようだったが座り込み、屯し始めた。出るに出れない状況と言える。
「ごめん。じっとしてて」
「うん」
冬場にも拘らず、蒸されてしまうような暑さだった。声を出してはいけない環境が発汗を促す。背中に張り付いた制服は、空間の狭さを引き立てた。
藤代さんは僕に背を向けている。シャンプーと柔軟剤、うっすら滲んだ汗の混ざり合った匂いが立ち込めた。複雑だが、不快ではない。あるいは、状況のせいで判断力は低下し、若干の興奮を引き起こしているかもしれなかった。
「高貴、死んじまったな」
うち一人がそう呟いた。掃除用具入れの中からでは清峰の表情は窺い知れなかった。
「実感出来ねえよ、正直」
「だよな。綿貫がやったんじゃね」
「ありえる。いや、高貴があいつに殺されるとも思えねえんだけどなあ」
「まあ確かに」
皆、口々に清峰への思いを語っていた。藤代さんの呼吸で上下している背中だけが目に入った。
「まあでも、居なくなって良かったかもな。なんか気が楽になったし」
「え、分かる。あいつ怖かったし、毎回リーダー感出すのウザくなかったか」
突然、思いもよらない方へ風向きが変わった。話の続きも気になったが、何より清峰本人の姿が見たかった。
それから十五分くらいだろうか、彼らは教室に居座った。体感なので実際にはもっと短かったかもしれない。扉の音が聞こえ、少ししてから僕らは出た。
「ぷはあ」
十二月を忘れる暑苦しさだった。藤代さんも澄んだ空気を大きく吸い込んでいる。
「ごめんね、急に」
今日は謝られてばかりだ。もっと楽しい話がしたいが、それは叶いそうにない。
「何で隠れたの。まさか僕を庇って? 心配なかったのに」
「それは」
彼女はまたもばつの悪い表情をした。それは普段とは少し違っていた。
「た、タイプライターの悪魔。私も読んだことあるんだ。読み終わったら感想話そ。ねっ」
図書室で僕が借りて読んでいた本だ。覚えてくれていたのか。
「うん」
彼女との予定が出来た。帰路の足取りは軽くなった。そういえば、清峰の姿は確認出来なかった。
帰りの校門で、清田父が待っていた。藤代さんは「先に帰るね」といって僕を残した。せっかくの下校が少しだけ残念な結果に終わった。
「綿貫くん。ばたばたとしていて君の元へ来るのが遅くなってしまった。申し訳ない」
また謝られた。
「社会だってネットだって君の味方だ。特に、現代の情報や世論を占めるネット上には、君と同じいじめを経験した人、経験している最中の子がたくさん居る。今回のことを君が気に病む必要はない。あれは私の責任であり、清峰高貴彼自身の責任でもある。もちろん一番は清峰市長の責任と私は思っているが。言い切ることは出来ないけど、こうなった以上この結末が君にとって最良だったと信じる他ないよ」
市長は失脚でもするのだろうか。大人の難しい話は分からない。
僕へ励ましの言葉を掛ける為にわざわざ出向いてくれたことには感謝しかない。しかし僕の頭の中は藤代さんでいっぱいだった。早く家に帰って本の続きを読まなければならない。まだあらすじのところまでもいっていないのだから。
家に着くと、急いで上へ上がった。早急に宿題を終わらせ、読書の時間に充てなければ。
本を開く。創作物に時間を割く余裕が出来た僕は、久しぶりに没入した。本を読み切れば藤代さんの好みを知ることが出来るかもしれないという邪な理由を添えて。
主人公はタイプライターを使って原稿を作り上げるアメリカ人の小説家だ。自らの才能を疑ったことは無いが、出版する本は売れる事なく鳴かず飛ばずといったところ。
猟奇殺人をテーマにすることが多く、内容の特異性からか世間にはウケが悪かった。作風を変える気は無く、このまま質を高めることに集中していた。
主人公は何故売れないのかを真剣に考えた。熟考の末、辿り着いたのはリアリティだった。もっと読み手を納得させる文章力が欲しい。それには自分には経験が少なすぎる。想像で物事の細部を表現するということを一度忘れ、実体験による能力の向上を試みる。中でも物語の根幹となる、人を殺めるという行為を味わう必要があった。童貞を捨てれば見えてくる景色というものがある筈だと確信していた。
人に対する恨みなどは持ち合わせていなかった。故に、動機はあっても人選に悩まされた。
そう決めあぐねている内に数日が経過した。ある日、新作をヒットさせた作家のサイン会が行われているのを見かけた。あそこに座るべきは自分なのに。そんな子供の嫉妬のような感情を自覚すると、標的は自然と定まった。
初めての殺人。共通の知り合いを通して食事を持ち掛け、酔わせた帰り道に裏路地へ誘い込む。家にあったペティナイフで喉元を掻っ切った。主人公には劇的な出来事であった。人生観が百八十度変わるような、鮮烈な快楽を覚えた。帰宅後、指は走った。
正体がばれることは無かった。用意周到な主人公は自らの小説を振り返り、作中の殺人犯と心を重ねた。裏路地は浮浪者の多いところを選び、殺害を実行する直前に手袋とレインコートを身に纏う。深夜の為、周りは眠り込んでいる。迅速な手際で泥酔した作家の男の命を絶った。側にある金属製のダストボックスに積まれた黒いごみ袋を一つ開け、自らの衣類を全て放り込み、用意した別物に着替える。あとは男の所持品をばら撒き、財布の中身も全て地面に散乱させた。偽装は完璧と言えた。
ドラッグのように命を奪う愉悦に取り憑かれた主人公は、止まることのない殺人衝動に身を委ねた。徐々に殺しの理由は意味を薄れさせ、手当たり次第に無関係の人間を巻き込んでいった。一人、また一人と、無垢な第三者を手にかけた。
主人公は初めから狂人だった。処女作から現在までの新刊を含めた全て、殺しを主題とした目を背けたくなるような事件の連続。犯人の手口は凄惨なものだった。そのどれもが自伝的な意味合いを孕んでいたのだ。
自己投影の極致。主人公は小説という媒体を、「性的欲求を満たす為の道具」として消費していたのだ。
物語の中腹まで読んだかというところ。僕の耳に、意識を引きずり戻す雑音が聞こえた。
「お前にそいつの心情が分かるのかよ」
清峰だった。今日はもう現れないかと思っていた。僕が読んでいる間、後ろから本を見ていたのだろうか。
「分からないよ。彼は人殺しだ」
そう言った途端、清峰は大きくため息を吐いた。
「だろうな。藤代、あいつ喋れるんだな」
急激な話題転換。そしてその内容に僕はどぎまぎした。
「は?」
人の名前もそうだが、一瞬、言っている意味が分からなかったからだ。
「ん。あいつのあがり症や内気っぷりは有名だろ」
彼の言葉がようやく分かった。中学一年の時、いじめに発展こそしなかったが、彼女の名前をあまり良くない理由で耳にした。
藤代さんは少しコミュニケーションが苦手らしかった。そのせいで実しやかに自閉症や吃音との噂が学校内に流布した時期があったのだ。思えば小学生の頃から大人しい性格は変わっていない。実際のところは、騒がしいクラスを静めるだけの声を上げることが出来る。ただ彼女はあまり人の目を見ることが得意では無く、自発的に会話をすることも滅多になかった。人より少し恥じらいがあるだけなのだ。
「夏休み明け、自由研究発表の時も吃ってたろ。あれは傑作だった」
僕だって彼女のことを詳しく知っているわけではない。しかし清峰の一方的な物言いには無性に腹が立った。
「もし本当にそうだとしても歴とした病気だよ。馬鹿にするのはあんまりにも酷い。やっぱり清峰くんは読書家なんかじゃない。人の心が無いんだ」
咄嗟にしてはまともな反論だと思った。彼を傷つけるだけの言葉も付け加えたつもりだ。だが彼が失速することはなかった。
「病気だと。違えよ。それは短所に言い訳や逃げ道を与えてやっただけの同情の名前だろ? 本当の病気や障害に失礼だとは思わないのかよ。譲歩しても、個性と呼ぶべきだろうな」
放たれた言葉は彼の心からの意見なのだと理解する。声には感情が乗っていた。
「なんてこと。やめろよ、君が薄情なのには変わらない」
「そうだな。まあ反論を思考停止する奴よりかはマシだが」
僕に文字通り手も足も出ない筈の奴の言葉が、どうしようもなく神経を逆撫でた。
「うるさいな!」
自室に声が響いた。部屋に一人でいる人間の声量ではなかったと思う。
「驚いた。お前でも声を荒げるんだな。好きな女を悪く言われたからってキレんなよ」
自分でもここまで感情的になるのは久しぶりだったので、声の上げ方がうまく分からなかった。
思いを寄せる人を侮辱される、それも僕をいじめていた人間に。苛立ちを抑えることは難しかった。宥めるような一声が僕の血圧を下げてくれた。
「ご飯出来たわよー」
母の声だった。
驚いた。鍵を開ける音、玄関扉の音が聞こえなかったからだ。
今思い返せば、帰宅時僕は二度鍵を開けていた。別の事に気を取られていて、それを不自然と思わなかった。つまり、僕が帰ったとき、母は家に居た事になる。それでいて僕を玄関まで迎えに来なかったのはおかしい。やはり清峰のことで憔悴しているのだろうか。大人の心労は計り知れない。
「誠子さんが呼んでる。行ってこいよ」
その言い振りから、ついてくる気は無いのだろう。刹那、正体の分からぬ違和感が僕を襲った。それをひとまずは横に置いて、下へ向かう。
晩ご飯を作り終えた母は手を洗っていた。疲れているなど余計な心配だったようで、初日に比べ少し顔色が良くなっているように見える。その証拠に、微かに鼻歌が聞こえた。
清峰のことは視界に入らなければ案外簡単に忘れることが出来た。藤代さんと小説のことを考え、気分良く食事を口に運んだ。母は料理の腕が上達していた。
翌日。警察からの事情聴取を受けた。
自殺した少年がいじめていた人間。話を聞かれて当然だろう。もう少し早く来るものと思っていたが、既に二日が経過していた。遅くなった理由として、明確な答えは返ってこなかった。言葉の端々から清峰市長関係でごたついていたのだと予想した。確か清田父も忙しいというようなことを言っていたのを覚えている。
包み隠すようなことはせず、ありのままを話した。清峰高貴との関係性、いじめの細かい内容、僕が四月からどう感じ、どう過ごしていたかなどを。
事件性は無いと踏んだのか、小一時間程度で話は終わった。事前に学校には連絡を入れていたらしく、僕は午後からの登校になった。
ざわついている昼休み。五限と六限には間に合った。教室に入る際の視線には未だ慣れない。ついこの間までは空気のように扱われていたのに。
真っ先に藤代さんが目に入った。僕は脇目も振らず、羞恥心を捨て話しかけた。
「おはよ、藤代さん」
彼女は五限の予習だろうか、教科書を開きペンを手に持っていた。一人だった。黒縁の中で瞳が動き、僕を睨め上げた。
「おはよう」
機嫌でも悪いのかは分からない。僕は話題を提供した。
「タイプライターの悪魔、半分くらいまで読んだよ。物凄い内容だね。藤代さんはああいう過激めな作品も読むの?」
僕がクラスメイトに話しかけるのが珍しいんだろう。周りの視線が集まっているのが分かる。しかしもう僕に怖いものなどない。真横にいる清峰だって、文句は言えても干渉は出来ない。
「うん。たまにね」
藤代さんの反応が芳しく無い。僕は次の言葉を探す。
「ガリ勉根暗女と女の前で緊張する会話下手な男か」
彼に返事をする気は無い。
「早く読み終えるよ、結末も気になるし。藤代さ」
「綿貫くん、話すのはまた今度にして」
少し突き放す言い方に聞こえた。何も言えなくなった。僕は黙って席に着いた。もう視線は感じない。
放心状態で残りの授業を過ごした。内容はくだらないことだった。将来に役に立ちそうも無いままごとに過ぎない。
清峰はというと、静かに話を聞いていた。思えば彼は授業中は真面目だった。妨害を働くようなことは目にした覚えがない。
放課後の人が疎らになった頃、再度藤代さんとの会話を試みた。すると、今度は上手くいった。やはり昼は気分でも優れなかったのだろうか。
「そう! 主人公の酔狂さは実は最初からちらほらと描かれているのよね。でもそれがただ残酷なだけじゃなくて、彼自身の美学というか価値観に沿っていて」
「分かる。文豪らしくて、只の善人じゃない人間が主役の作品の良さっていうのをよく表してる」
「天才よねっ!」
至福の時だった。二人きりの空間。授業とは違い、楽しい時間はあっという間に過ぎ去った。相対性理論は嫌いだ。
「あ! ごめんなさい、私そろそろ部活に行かないと」
「ううん、こっちこそ楽しかったよ」
藤代さんは美術部に入っている。聡明で婉美な彼女にぴったりの部活動だ。
「それと、お話するのは放課後にしましょ。その方がお互い気が楽でしょ?」
そう言われて気がついた。大勢が居る前で話すのは彼女が苦手とすることだ。だから昼に話しかけた際は素っ気なかったのだろう。配慮の足りなかった自分を恥じた。
「うん。そうしよう」
「じゃ、また明日」
「またね」
彼女は手を振って教室を出た。その笑顔は僕の乾き切った人生に潤いを与えた。暫し、余韻に浸る。
「良かったな。楽しそうだったじゃねえか」
清峰が現れた。藤代さんとの会話に水を差さなかった分、彼への怒りはそれほど無かった。
「俺が居なくなって、良いこと尽くしだな」
「そうだね。ようやく自分の人生が取り戻せそうだよ」
他意はなかった。惚気た表情を見られようが気にはしない。彼のせいで失った時間を、尊厳を、青春を、一気に取り返す。皆に追いつき、成長し、堪能する。
「お前はめでたい奴だな」
「え?」
言葉の意味を探ったがすぐに止めた。さも意味ありげに言う彼に翻弄されては生前と変わらない。
今、心臓を動かしているのは僕なのだから。
鞄を持ち、靴箱へ向かう。三日後には終業式だ。一月の十日まである冬休みに入る。
藤代さんに会えなくなってしまう。恐らく、清峰には毎日顔を合わせるだろうに。そんな事を考えながら靴を手にとると、その下から手紙が落ちた。身に覚えなどない。頭を傾げ、中身を開く。そこには僕への告白が綴られていた。
十二月二十二日。
他のクラスへ赴くことは滅多にないので少し緊張した。クラスの生徒に聞くと、その子はすぐに駆け寄ってきた。
「綿貫くん! 来てくれたんだ!」
自分で呼んでおいて、その言い方はないだろう。半疑だったのか。僕らは屋上への階段へ向かった。もちろん、屋上に出ることは出来ない。
「付き合ってくれるってことでいいの?」
開口一番、彼女は突飛な言葉を放った。僕は顔を左右に振る。
「ちょっと待って! 聞きたかったんだけど、僕達話したことすらないよね」
一年でも、二年でも。同じクラスになったことはない筈だった。
「あ、そっか。じゃ改めて、初めまして! 葦科(あしな)です。答えは決まった?」
随分と快活な女子だった。クラスで呼び出した時、男子生徒からは「あのオタク野郎に何か用か」と言われていたので、もっと大人しい性格だと予想していた。
「答えって。いや、気持ちは嬉しいんだけど、僕、好きな人がいて。だからごめん」
はっきりと言い切った。失礼かもと思ったが、藤代さんへの気持ちに嘘はつけない。
「えー? あたしそこそこ可愛いと思うんだけどなあ」
ショックを受けているようには見えない。それが僕の疑念に拍車をかけた。
「そもそも、知り合いでもないのになんで僕を」
一目惚れ、なんて言うわけがない。ならば僕に告白する理由が分からない。
「そんなの決まってる、君が有名人だからだよ」
「へ?」
理解の追いついていない僕、瞳を輝かせている彼女。困惑した僕に説明を付け加えるように葦科さんは物凄い勢いで話し始めた。
「だってあれだけクラスでいじめられてたんだよ。そりゃ有名にもなるよ。市長の一人息子のターゲットになった男の子。知らない生徒は殆どいないんじゃないかな。綿貫くんの顔や名前はみんなに知られてるよ。学年に、学校中に!」
彼女が言葉を重ねる度、顔から火が出そうになった。言われてみれば当然だろう。公衆の面前での恥辱は一度や二度ではない。昼休みでのリンチも、放課後の連行も、醜聞を広めるには充分だ。清田先輩のようなケースは珍しい。彼女は傷を抉る行為を平然と続けた。
「それって唯一無二じゃない? それってまるで、映画や漫画の『主人公』じゃない!」
まるで話にならない。馬鹿馬鹿しかった。彼女が奇異の視線を向けられていたような理由が分かった気がする。
「あたし、普通じゃない特別な綿貫くんにすっごく惹かれたの。お願い! あなたの物語のヒロインにさせて?」
私利私欲に素直過ぎる性格なのか、自らの利己主義を隠そうともしない。むしろ感心した。
「何言ってるんだよ。葦科さんはおかしいよっ」
つい口走ってしまった。
「そうかな。人を好きになる理由なんて人それぞれだと思うけど」
「限度ってものがある!」
傍から見れば滑稽だったろう。告白の手紙から織り成される事態とは思えない。
「僕に少しは遠慮してそういう話は控えるのが普通なんじゃ?」
「あたしも普通じゃないってこと!」
「なるほど!」
問答すら阿呆らしくなってきた僕は、ついに吹き出した。
「ぷっ、あはは!」
葦科さんも僕につられそうになっている。
「何? おかしくなった?」
同級生と一緒に笑ったのは久しぶりだった。清峰と居る時の恐怖感とはもちろん、家に居る解放感とも、藤代さんと居る時の高揚感とも違う。心地良い気分になった。悪くない、そう思った。
「僕に関わるだけでも物好きなのに、これだけ失礼なことを言うのは葦科さんくらいだよ」
邪険にしていない。等身大で接してくれている。それだけで十四の僕は嬉しさに打ち震えた。
「あはは! 綿貫くんも大概だね。で、綿貫くんの好きな人って?」
笑い止まぬ中、葦科さんは訊ねた。少し迷ったが、明かした方が面白そうだと思った。
「ふ、藤代さんだよ。僕のクラスの藤代藍」
葦科さんは変わらずにへらへらとしていた。
「え? 藍ちゃん? 無理じゃん、藍ちゃん好きな人居るし」
「え?」
口角の緩んだ彼女の顔が歪んでいく。聞き間違いでなければ、彼女は今とんでもない事を口にした。
「仲、いいの?」
「うん。好きなアニメが一緒で、ちょっとだけ話す関係なんだ」
食道が締まる。胸焼けがする。顔は、真っ青になっていることだろう。
「え、ごめん、そんな本気だったの。傷つけちゃったかな」
人のいじめはおちょくるくせに、彼女は一丁前の心配をしてきた。まさかこんな形で再び奈落の底に突き落とされるとは。僕の人生はつくづくツイてない。葦科さんの言う通り、人とは「違う」のだろう。不安を抱えながらも勇気を振り絞り、名前を聞き出す。
「いいんだ。あのさ、その、藤代さんの好きな人って」
流石の葦科さんも躊躇っているように見えた。気が引けるのだろう。しかしそんなことは言っていられない。
「分かった! 君と付き合う! だから教えてくれよ。知らないままじゃ気持ちが悪いんだ!」
言葉に熱が入る。両手で彼女の肩を掴むほどに。
「綿貫くん。今、相当ひどいこと言ってるよ?」
君の意見なんてどうだっていい。藤代藍が好意を寄せている人間の名前を口にするだけでいいのだ。
「わかったよ。はあ。結構前に聞いたことだから今もかは分からないけど、藍ちゃんが好きなのは」
鼓動が速まった。死の直前、走馬灯を見る時は周りがスローモーションになったように時間の流れが遅く感じると言うが、まさにそれかもしれない。言葉の続きは一瞬のようでもあり、永遠のようでもあった。
「君のクラスの佐山くん。バスケ部の彼だよ」
その後の事はあまり記憶に無い。
嘗ては、居ないものとして空気のように扱われ、どれだけぞんざいにしてもいいぼろのように扱われた。今まではそのどちらかだけだった。
しかし衝撃を受けた後は、視線を集めるだけの案山子と成り果てた。横でけたけたと笑う誰かの声が聞こえていた。
藤代さんの想い人はいじめっ子七人のうちの一人、佐山だった。彼らの中でも下っ端で、自由意志の無いイエスマンだ。
死体を啄むハゲタカのような、ごみを貪る烏のような、糞に集る蝿のような、埃を這いずる蜚蠊のような、瑣末な人間。自らの意見を言うことすら出来ない。例えるならそう、金魚の糞だ。
彼女にはあまりに、相応しくない。
終礼後、覚束無い足取りで帰路をなぞった。色が落ちてゆく。熱したように揺らぐ地続きの皿の上、徐々に溶けていく鈍色の火球が僕を嗤っていた。
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