「希死念慮は明日の向き」⑥完
十二月三十一日。
年が明ける前日。昨日はそのまま寝てしまい、母とは話していない。反して、清峰はその饒舌ぶりを遺憾なく発揮していた。
「俺は本が好きだ。文字の文化だからな。中でも言葉遊びが好きなんだよなあ。綿貫なら腑を抜くって書いて腑抜。お前をこてんぱんにするのにぴったりの理由づけだ。誠子さんは性なる女って書いて性女。溺れがちなあの人らしいだろ?」
上機嫌に一人で喋っている。奴に則れば、同じ清いという文字が入った人間でも正反対な人間もいる。名前負けしている男が言葉遊びなど甚だしい。
嗚呼、絶望。
生き死になどと言う安直な物差しではない。二方向ではなく立体的。失意の中、この世の全てに関心を持てなくなってしまった。能動という意味を忘れ、意義を失くす。奇跡や絆、可能性を嗤い、厭世観で窒息する。
情熱を表す薔薇のような。母へ送るカーネーションのような。毒性を持つ彼岸花のような。そんな、瞼の奥の鮮やかな赤を求めた。赤血球が形作る肉の色か、光を通す故の明るい彩か。期待は空を掴む。視界は僅かな光の反射さえ許さぬ黒に包まれた。それでも、僕は闇を見つめ続ける。重なる視線は永劫訪れぬと知りながら。
泥に身を委ねることが今の望みだったのかもしれない。
「死んでるな」
清峰が僕に言葉を投げかけた。一人漫談は終わったらしい。生きているとも死んでいるとも言えない今の僕に、敢えての表現を使ったのだろう。いつまで続くかは分からないが、彼は恒久的に僕を小馬鹿にする。それが生き甲斐だと言わんばかりに。
「無視はやめてくれよ。傷ついちまう」
綿毛のような言葉を吐いたかと思えば、鉄のような言葉を並べる。
「俺と話せるのはお前だけなんだぜ」
それはそうだろう。僕に憑いた亡霊なのだから。当たり前のことを口にする余裕があるのなら羨ましいものだ。僕にはそれすら難しい。
「なあ聞けよ。お前は今、岐路にいる。辛いよなあ、苦しいよなあ。クズみてえな人間に散々弄ばれ、好きだった女や好かれた女に裏切られ、家族の真相や本当の姿を知った」
見覚えのある道化がそこには居た。
「世界は汚れてる。そうお前がずっと抱いていたであろう感情は事実だったわけだ。でもよ、人生を楽しんでるのはどっちだと思う? 愉しめていないのはどっちだ」
今更そんな問いかけに意味があるのか。沈黙で応える僕に呆れて身を乗り出した清峰。もし詭弁に傾倒する余白があれば、議論に付き合うのも一興だった。
「『つけ』が回ってきたんだよ。他人を想わず、自分すら知らないお前にな。倫理も道徳もへったくれも無え。そんなもんは糞の役にも立たないってことが分かっただろ」
まるで聖職者にでもなったかのように一丁前の説教を聞かされている。
「僕に同情なんてしないと分かってるけど、僕だって精一杯頑張ってきたんだ。そっとしておいてくれないかな」
やっとの思いで絞り出した言葉がこれだった。
「精一杯頑張る? はっ。今まで何も成してこなかったお前の、一体どこに説得力を見出せばいいんだ」
完治も寛解も望めぬこの癌は、まさしく不治の病と言えた。なんと憎らしい。
「おい、なあ。やられっぱなしでいいのか」
「は?」
亡霊はおかしなことを口にした。瞳には生気が宿っている。冗談ではなく、聞き間違いでもない。たしかに今、彼は突拍子もないような発言をしたのだ。
「綿貫よお、お前の考えてることは分かるぜ。ぜーんぶ分かる。以前の俺に対する復讐としてじゃなく、絶望した末の自暴自棄で死にたくなってる筈だ」
清峰は手を伸ばし僕の胸を通過させる。そして何かを掴むような動作を繰り返す。視界には無意味と分かっていながらも、いつか心臓を取られそうになるかもしれない恐怖が映った。
「でも死ねば俺のように成仏出来ねえ存在に成り下がるかもしれねえ。そんでもってその先の第二の人生でも、俺にいじめられる悪夢の始まりが訪れると。まさに八方塞がりだ。さて、どうする」
飴玉を飲み込んでしまった。そんな不快感が喉元を襲う。取り入れる酸素の量が減少したように思えた。
「無数に広がる分かれ道のどれもが封鎖されている? 違え。今のお前は肩幅程度しか足場のない崖の上に居るんだ。前進も後退も許されねえ。これじゃあ神様に喧嘩は売れねえだろう。お前は急斜面を全力で駆け降りて陸を目指す必要がある」
どこかで気が付いていた。清峰高貴という男が万物に阿らない人間だということは。社会に迎合することはしない、それが彼の在り方なのだ。
一つの提案として、彼は人差し指を立ててみせた。
「年越しは神社で迎えてみろよ。きっといい事が起こるぜ」
何を企んでいる。こんな状況に身を置いて、わざわざ人通りの多いところに赴くというのか。中学生だってきっとたくさん居ることだろう。
「飯を食う気力も無い。けど死にたくも無い。お前がここで何もせず、やがて迫る空腹に苦しむもの勝手だが、いずれ限界が来る。じゃあ何か目標ってもんがあった方がいいだろ。とりあえず人の群れに塗れてみろよ。何か発見があるかもしれねえ」
癪だった。しかし事実として他に道はないのだろう。何も考えずに布団に包まる。就寝という思考停止の逃避は、今の僕にとって唯一の良薬になると信じた。
そしてただ、夜を待った。
厚着に着替え、愛用の手袋とマフラーに身を包む。マスクやニット帽も被ろうかと考えたが、やがてやめた。
階段を降り、リビングを横切って玄関に向かった。母の姿が視界の端に映った気がしたが、掛かる声は無かった。冷えた金属のドアノブを回し、重い扉を開ける。僕を迎えたのは一面の白銀。風は無く、乾いた冷気が鼻を掠めた。長時間外に居れば顔が感覚を失うのは明白だった。手袋はしているので手先の動きが悪くなる事は無い。足を一歩踏み出す。水中の如き抵抗が全身に感じられた。
徒歩でおよそ二十分くらいに位置する地元の神社へ向かう。暗闇の中、家から十分を過ぎようというところで行き先の同じ人影がぽつぽつと増えていた。皆寒そうな格好をしていたが、その表情は暖かみを帯びていた。
絡繰のように足を動かしていると、群衆の織り成す音に混ざって屋台の馥郁とした香りが漂ってくる。飽和している駐車場や随所に生える木々を抜けると、広々とした一本道が賑わいを見せていた。
「おー、やってるねえ」
無造作に凝縮された幸せは、僕の網膜を圧倒した。
ゆっくりと蝸牛に扮して歩く。こんな場所、一人で来るようなところではない。新年を共に迎えたい家族や恋人や友人とその瞬間を共有するのだ。食欲が湧くわけではない。どれだけの景色を目にしたところで、「僕」は何も変わらないのだから。ただ、立ち並ぶその商品の保証された味は想像出来た。
腹の虫が鳴く。今日は朝から何も口にしていない。せいぜいが水くらいのものだ。生命の維持を主とする肉体には酷なことを強いている。行き交う人の手元にある一品が、視線を自然に誘導した。
露店で目を引く林檎飴。定番の人気商品と言えるだろう。その光沢は味だけでなく気分さえも高めてしまう。
一本道を抜けると、少し急で大きな階段が立ち塞がる。二十段が二つ続く、四十にも及ぶ縦横に大きいその眺めは年の瀬を実感させた。体力の無さを痛感しながらその先へ向かうと、砂利の音が足先から聞こえる。立派な門構えを潜ると、参道の先にある御社殿が現れた。境内は人で溢れ返っている。
「喧騒で耳が腐りそうだが、お前には静かで荘厳な見てくれだけが眼球を支配してんだろうな」
清峰の言う通りだった。聞こえはするが、気には留めない。あまりに自分と他者との乖離を感じると、もはや空想上の物語を読んでいる感覚に近かったからだ。
諦念。高望みはするべきではない。そうだ、何もしなければ良い。非生産的でも実害は無い。そんな、ただ有るだけの存在になれば、悲観することもなくなるだろう。希望を知る者のみが絶望を知れる。時として知識は思考を邪魔する弊害となり得る。なら頭蓋を空にし、蓄えた抽斗を全て逆さにしてしまえば良い。忘れるのだ、何もかも。
清峰と年を越すことになろうとは。これから長い付き合いになると思うと気が滅入った。ふと横切った男女を振り返る。希望と絶望の香りがしたからだった。
音は完全に消え去った。握る拳に力が入った。訂正しよう。感情の廃棄は叶わなかった。
「え」
「ん。どした」
藤代と佐山だった。
長い沈黙がその場に流れた。あるいは刹那の時だったやも。佐山はこちらを見て徐々に目を丸くしていく。すぐには気づかなかったのか、余程僕には関心が無いのだろう。僕は藤代さんを見つめた。彼女は何を訴えるでもなく、ただ怯えていた。
「おえっ」
「藤代」
彼女は片手に持った林檎飴を落とし、吐くように上体を折り曲げた。佐山が背中を摩っている。
「こほっ。佐山くん、ごめんね」
交際しているのか。一体いつからだ。仲良く年越しに訪れたのか。気落ちしているのは僕だけだったのか。浮かび上がる疑問は彼女達への憎悪に変わっていく。
「お、おい。綿貫てめえ何見てんだよっ」
やはり僕の考えは正しかったらしい。藤代藍と佐山の人物像は予想通りだった。二人が僕にした謝罪など、実に表面的で無意味なものだったのだ。内心では二人で僕を肴に愛を嗜んだ。佐山は僕を殴ったその手で彼女に触れていた。
「ははっ、修羅場だな。佐山の奴はお前の気持ちを知らない。さぞ困惑する状況だろうな」
左の清峰の言葉は右に流した。
「少し人の目が気になるか?」
目の前の若いカップルが注目を集めていた。佐山は僕に敵意を剥き出しにしている。僕が自分を赦していないことは彼が一番理解している筈。その上で、普段群れを為す彼が恋人と二人きりの状況で僕に出くわした。きっと、ばつが悪いのだろう。
反面、ひどく怯えている顔にも見えた。まるで、死人でも前にしているかのように。
「あっ。ま、またかよ。どっかいけよ! 邪魔なんだよ今更!」
藤代さんの前で格好をつけたいのか、騒がれない程度に僕を罵る。けれども佐山は動揺していて僕とは目が合わない。彼は明後日の方向を見ていた。
何も言葉は出なかった。何を言っていいのか分からず、自分が何をしたいのかすらも分からなかった。
「弱い犬ほどよく吠えるってな。身の丈に合わない人生を歩んだ結果があれだ。どう思う。何を感じる。あの二人の姿を見て、綿貫が今やりたいことはなんだ」
走馬灯のように駆け巡る記憶。
藤代さんに抱いた淡い恋心。二色の世界を鮮やかに色付けた天使であり、日々の糧。ふらついた僕を支える柱となった。
佐山に抱いた重い激情。清峰を含めた七人をどれだけ残酷に殺すことが出来るか、その想像を膨らませることが日々の愉しみであった時期もある。
清田先輩が僕を助け、あの親子が事を起こし、それを起点に清峰は死んだ。そしてより強い暗黒を齎した。亡霊を取り憑かせ、信じ難い凶報の連続で僕を苦痛に震わせた。激動の日々は硝子を修復不可能なまで粉々に打ち砕いた。
「何も、無いよ」
「あ?」
唐突な独り言は気狂いのように見えただろう。いじめられていた人間が復讐に現れるというのは珍しくない。蚤の心臓の佐山には、僕が恐ろしく映ったとしてもおかしくはない。
「ちっ」
佐山は舌打ちをして鳥居の方を向き、階段へ歩き出した。藤代さんに肩を貸している。よろよろになりながら僕との距離を作っていく。
「このままでいいのか。年を越して、とぼとぼ家に帰り母親と言葉を交わすこともないまま元日を終える。正月も終え、冬を終え、二年も終わり三年に上がる。春を終え、受験を控えて苦労したらあっという間に高校生だ。そのまま大学に、就職に。お前の人生にライトが当たる日はいつ来るんだろうな。諦めは暗がりを照らしちゃくれねえぜ。永遠に感じる日々を変えるのは、お前しかいない。綿貫」
左の耳に囁きかけるは悪魔の音色。触れることは出来ない。そんな彼の吐息が風のように耳を這う感触があった。
「佐山に教えてやれよ。お前は弱肉強食の弱者側だったんだよ! ってな」
二人が階段の一段目に差し掛かろうという時、体は磁石のように引き寄せられた。自ずと、手は前に出た。
瞬間、佐山と藤代さんは互いに手を伸ばした。伸ばしてしまった。
彼女は佐山と縺れるように階段を落ちていく。あの頃、家まで蹴った石ころを思い出した。坂道や段差に差し掛かると、たちまちどこかへ消えてしまうあの石ころだ。
二人は赤くなっていた。頭からどろりと流れる赤黒い血が月明かりに反射している。僕の顔は青かったに違いない。
「やった、『動いたっ!!』」
清峰がまた何か言っていた。
咄嗟に僕は二人を追い、身を案じた。人集りのせいか佐山の背を押した瞬間を見た者は居なかったらしく、知り合いかと問われた後、近くの大人達が救急車を呼んでくれた。周囲には同年代くらいの子供も数人居たが、左見右見していて僕と目が合うことは無かったように思う。何か必死に大人に話しかけていた。
放心している僕に数々の声が掛けられる。人生で初めて能動的に事を成した。まさか、人生で一番忌むべき人間に、唆されたとでもいうのか。万華鏡を覗いたように、ぐうらんと視界は歪み、滲んでいった。
「君が。君が焚きつけた。もしかして君は、初めから」
「おいおい勘違いするなよ。俺がやったのは教唆じゃねえ、幇助だ。お前の、くくっ。背中を押してやったに過ぎない」
近づいてくるサイレンの音。周囲からは憐憫の眼差しを向けられていた。手が微かに震えている。
きっと僕は、知らずのうち清峰高貴に耽溺していた。
救急搬送の後、二人は病院に運ばれた。診察から集中治療室へ、迅速な対応が行われる。僕は取り返しのつかないことをしてしまった。清峰の姿は見当たらない。
「気を確かに。あと少しで保護者の方も来られるから、君はもう帰ってもいいんだよ」
看護師の言葉に僕は首を横に振った。
「く、クラスメイトが心配なんです。待たせて下さい」
「そう、ならいいけど」
二人の両親は現れない。然程遠くはない病院だが、大晦日、交通量も多く渋滞にはまって遅れているとのこと。
時間だけが過ぎていく。一秒が一分に感じられる。随分待たされているようで、意図せず片足が上下に動いた。すると、中から壮年の医者が出てくる。
「庇い立てが要らなくなっても事件は起きるのか。いや、今回は殺人じゃなく事故か」
何かを独りごちた後、こちらを向いた。
「君だけかい? 手は尽くしたよ。今現在は一命を取り留めたけど、意識は戻っておらず、予断を許さない。後は本人達次第だ」
病室に移す。そう言って二人の部屋番号を教えてくれた。準備に人員を割き、ごたついているようだったので僕は先回りした。少ししてから二人が運ばれてきた。鼻には酸素を供給する為の痛々しい管が着けられている。
中に入ることを許された。僕は真っ先に藤代さんの元へ駆け寄り、その手を握った。目を瞑り、祈る。僕にはただ祈ることしか出来ないから。
「綿貫くん」
全身に力が湧き上がるのを実感した。口から安堵が漏れ、細胞の一つ一つが歓喜の声に満ち溢れた。
「良かった」
僕は顔を強張らせることになる。気が動転していたからだろうか、気づくのに時間がかかった。
声は左の耳元から発せられていた。
三つの罪禍が、僕を苛んだ。
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