夏は始まったばかりなのに
さっきまで雨が降っていたから、その相対的に雨のない今がとても静かに感じる。空気も冷めて、窓を閉めると丁度といった感じ。部屋着も薄手の長袖で過ごしているよ。7月8日の木曜日。7月もいつの間にか1週間を過ぎていた。雨には正直うんざりだけれど、どうしようもない雨だけれど。僕は、僕自身はもっと深く深く意識に、あるべき夏をしみこませて、フルスロットルで生きていくよ。
相変わらず週間天気は雨尽くしだけれど、あえて、その中で楽しむんだと己に言い聞かせる。嫌いな雨と、好きな雨を慎重に区別をする。そしたら、僕の好きなあの空を思い浮かべよう。空の、黒い浮浪雲やその奥の厚ぼったい灰色の雲、立体感があってなかなか見ていて飽きないのだ。そしてもうすぐ雨が降るという予感に、やさしい雨が降るという予感に、少しだけ。
湿気た土の匂い、生温くひと際強くなった風、それに騒めく木々。一つポツ、もひとつポツ、ポツポツポツポツポツポツ。
あっという間に雨は本格的、僕は立ち往生だ。どこかの知らない誰かの軒下、そこで雨宿り。服にしみこんだ雨、張り付いている雨を払い落としては空を見る。もっと、もっと暗くなっていく。けれど僕はその暗示に明るい希望を抱いている。好奇心がうずく、また、忘れ物探しに行ける。
僕は笑っている。雨に濡れた顔を拭いもせず、玄関から出てきて、訝しんだ顔をした他人にも気づかず。笑っている。45°の角度で。90%の湿度と期待度で。一つ一つの雨に手が見えて、やさしくやさしく、僕の顔を撫でていく。雨には僕の受け入れる気持ちが分かる。けれど、もう少し奥を、僕は覗いていて。
虹がかかる前に、見つけ出さなきゃいけないよ。虹にはだれも敵いやしないんだから。「はい、終了」と冷たく告げられては、振り出しに戻されるのが常だ。今日こそは、だから今日こそはゴールしてやる。
どんどん風が強くなる。体さえ吹き飛ばされそうなほどの大嵐だ。雨も一層強く、降りつける。地面がシャバシャバと一斉に話し出すから、僕はあいまいな相槌で地面にへたくそな笑顔をおくる。くらっとくる。あ、下を向いてしまった、な…。
地面に黒い穴が、まるで小さな竜巻が地中で蠢いてるかのようにできる。クルクルと上昇螺旋をまいた穴に、僕は不安しか感じることができない。(どこで間違った)なんて己に問う余裕もない。だんだん頭が見えてくる。ゆっくりゆっくりと、奴が上昇してくる。雨はいつの間にか上がり、気怠い湿度だけを残して消えていた。その、濃い空気にせき込む。
「ああ、今日もやっちゃってんなー」
皮肉たっぷりの顔で黒い影は言う。言いながらもこちらに大した興味はないアピールをしている。体中についた煤をゆっくりゆっくりと、自らの体を慈しむように撫でては落としていた。そのうち影の足元に黒いすすが溜まってくる。僕は戦き、後ずさりをする。
「はい、2回目ー」
その黒い煤から2体目の奴が現れる。何者なのかはわからない、認識できるのは直立した、重量ある、黒い、人の言葉を話す、人の形をしたモノ、という事だけ。しかし僕はこいつと昔からあっている。腐れ縁ってやつだ。しかし力の差は歴然。僕は、息を止め、奴が消え去るのを待つことしかできない。
「無駄だ、貴様が俺を認識した時、同時に俺も貴様を認識している。初めて会った時からずっと」
ほら、間違っている。僕は思う、僕は知っている、なぜか。でも争えば負けることが直感で分かる。だから、黒い影がいくら僕を認識しようが、認識されていることを重々承知していようが、僕は、息を止めて、ただ、奴が消え去るのを待つことしかできない。…前にもあったな。
いい幻想だったはずなのに、悪い幻想に打ち負ける。しかもそれは唯一、正真正銘の自由である、己の想像内のことなのに。ましてや、その動機は空想妄想に浸って心地よくなるため、そのためなのに。
いや、この一見強制的に曲げられたと思える想像も、その根本は己の希望だったのかもしれない。深層心理に、踵だけ潜れたか。夢中で気づいていなかっただけ?
いや、想像しようと力んだんだきっと。思い通りに想像しようと力めば力むほど、余計な想像が邪魔をする。例えば、壁のシミだったり。それが脳内に焼き付いて、ほかの事を考えようと思っても入ってくる。いわゆる、音楽でいうところの、イヤーワーム(脳内ループ)に近い。そんな時は、一度考えるのをやめようと思っても、目を瞑った瞬間勝手に浮かび上がってしまって、それはそれは厄介だ。他の集中できることに切り替えるしかない。
だから、ずっと僕は、また雨が降り出せばいいのに。やさしい、雨が。地表に落ちては雨音を鳴らし、直後蒸発してくれるような、特別にやさしい雨が。そう思ってる。
なんなら見えなくていい。僕の脳内だけで、降ってくれ。カルロ・ロヴェッリ!
そう思っているのだけれど。
すっかり上がってしまった雨が、あたりをしんとさせてしまう。さっきから、時計の秒針ばかりが、嫌に耳につくのだ。
夏は始まったばかりなのに。