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《週末アート》 “土佐派”ってにゃに?

《週末アート》マガジン

いつもはデザインについて書いていますが、週末はアートの話。毎日午前7時に更新しています。


“土佐派”と”狩野派”ってにゃに?

狩野元信『四季花鳥図屏風』(室町時代:16世紀)根津美術館蔵
画像引用:ART AgendA
土佐光起『源氏物語朝顔図』(江戸時代:17世紀)根津美術館蔵
画像引用:ART AgendA

土佐派(とさは)狩野派(かのうは)は、日本画の二大流派です。両派は、宮中や幕府の御用絵師絵所預(えどころあずかり)を勤めてきました。それぞれ、どのような流派なのか、をざっくりと紹介していきます。その前に、日本画の流派には、琳派(りんぱ)というものもあります。それぞれの違いを、山田五郎氏が、このように説明しています。

土佐派

朝廷だからたおやかで女性的すやり霞(すやりがすみ)や、烏帽子(えぼし)をかぶった人が登場したら土佐派。すやり霞とは、画面の随所に霞(かすみ)を描き込み、余白的効果をもたらし、画面が煩雑になるのを避けたり、 日本的な遠近法として、画面の上方が標高が高いという約束ごとを表現する時に用いられる技法。絵巻物などでは、同一画面内で複数の場面を共存させ、場面から場面への展開を見せるために使われます。また物語の終端を暗示的に終わらせる手法としても用いられます。槍霞(やりがすみ)ともいう。

『源氏物語絵巻(隆能源氏)関屋の帖』(国宝・12世紀) すやり霞の原形ともいうべき霞の表現が山の腹を隠している。形状はごく不定形。
『春日権現験記絵巻第2巻』(宮内庁・ACE1309) 鎌倉時代末期、既に様式化しているすやり霞


狩野派

狩野永徳筆 『唐獅子図』(宮内庁三の丸尚蔵館)

力強いタッチの岩、枝、強い動物(虎、鷹、鷲など)が登場したら狩野派。狩野派は、出資元が武士だったので自然と画風が力強い。


琳派

俵屋宗達 風神雷神図

余白があれば琳派。琳派は、勝手に真似されて(これを私淑(ししゅく)と言い、「面識のない人を著作などを通じて師と仰ぎ、模範として学ぶ」という意味で、「私」は「ひそかに」、「淑」は「よいものに親しむ」の意)、何百年も受け継がれてきた流派です。ちなみに琳派についてはこちらの記事で書いています。

今回は、土佐派と狩野派のうち、土佐派にフォーカスしていきます。そのまえに、御用絵師や絵所預(えどころあずかり)とはなにか、触れておきましょう。


御用絵師

御用絵師(ごようえし)とは、中世から江戸時代や明治以降まで、幕府や諸大名に仕えた絵師のこと。江戸幕府の御用絵師のうち、最も格式の高い職位は「奥絵師」と呼ばれ、世襲されてきました。室町時代に足利将軍家に仕えていた如拙(じょせつ)や周文(しゅうぶん)小栗宗湛(おぐりそうたん)狩野正信(かのう まさのぶ)などが御用絵師の先駆的存在。織田信長に仕えた、狩野永徳(正信の曾孫)は、統一政権の庇護を受けて狩野派繁栄の基礎を築きました。


絵所預

絵所預(えどころあずかり)とは、平安時代、宮中の絵所の全体を総轄する職。絵所は、宮廷の屛風障子などの絵画制作にあたった公的機関。その長は、別当(べつとう)といわれました。鎌倉時代には寺社に、室町・江戸時代には幕府にも、それぞれ絵所が置かれました。

土佐派

土佐光興作とされる『源氏物語 第42帖 匂宮 仁王立ちの図』(1617-1691)

土佐派は、室町時代(1336-1573年)初期に成立した流派です。狩野派をはじめとする中国美術の影響を受けた流派に対して、日本古来の美術を題材とした大和絵を専門とする流派です。土佐派の絵画は「単純な輪郭線で囲まれた不透明で平坦な色彩の領域、精密で慣習的な描画」を特徴としています。『源氏物語』など、日本の文学や歴史などの物語的題材が多く描かれています。しかし、江戸時代の17世紀になると土佐派、狩野派ともに幅を広げ、他派との区別はあまり明確ではなくなっていきました。

この流派の起源は、14世紀、南北朝時代(1337-1392)藤原行光(ふじわらのゆきみつ)とし、室町時代(1336-1573年)のおよそ200年の長きにわたって朝廷の絵所を世襲し、伝統と権勢を誇りました。特に土佐光信(とさ みつのぶ)の時代は、宮廷や将軍家と密接な関係を持ち、土佐派の最盛期でした。

土佐光信(とさ みつのぶ)『清光寺縁起絵巻』東京国立博物館

光信の土佐派は、1569年まで3代にわたって絵所預を務め、1634年、土佐光範の時代に再び、絵所預を務めました。17世紀まで、土佐派は宮廷や貴族のために絵を描き、その画題は、源氏物語などが好まれましたが、後年は花鳥画など中国風の画題や様式にも幅が広がり、画題は狩野派との差が不明瞭なっていきました。

『四季竹図』( 室町時代:1392-1573) 土佐光信(1434-1535)作と伝えられる。

室町時代末期、光信直系の孫、土佐光元(とさ みつもと)が戦で戦死したことにより絵所領職を失ってしまいます。安土桃山時代の頃より狩野派の躍進を受け、土佐派の勢いは減速していきます。桃山時代に門人(もんじん:弟子)土佐光吉(とさ みつよし)が堺に拠点を移し、一時は狩野派の下請け業者同然にまで衰退します。

土佐光吉『源氏物語図屏風』二曲一双(ホノルル美術館蔵)

しかし江戸時代にはいり、光吉の後継者、土佐光則が、息子の土佐光起(とさ みつおき)と共に京都に戻り、承応3年(1654年)に、光起が絵所領に復帰。流派は再興され、以後幕末までその地位を維持しました。また、光吉、光則の門人である住吉如慶(すみよし じょけい)は江戸に行き住吉派をたて、その子の住吉具慶(すみよしぐけい)の時に幕府の御用絵師となり、土佐派と同様に幕末まで続きました。

住吉如慶『伊勢物語絵巻』(巻三部分)東京国立博物館
I, Sailko, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=19831175による
住吉具慶『源氏物語絵巻』
画像引用:https://www.miho.jp/booth/html/artcon/00006562.htm

戻って、土佐光起は、従来の土佐派の画風に加え、唐絵や狩野派・琳派の技法を取り入れるなど新たな表現手法を積極的に採用しました。土佐派の日常生活を描くことへの興味は、浮世絵の流派、特に浮世絵の創始者の一人とされる貴族の画家、岩佐又兵衛(1578-1650)に影響を及ぼしました。

岩佐又兵衛「山中常盤物語絵巻(部分)」
画像引用:Art Flow


まとめ

日本の為政には、威光を形成するためや役人たちのいろいろとのために、絵が必要でした。そのために、絵所(えどころ)という宮廷の絵画やデザインを考案・制作する部署がありました。いわば、社内のデザイン部署。そして絵師たちは、インハウスデザイナーのようなもの。なので、土佐派は(狩野派も)、アート(芸術)というよりは、デザインに近いといえます。デザインとアートの違いは、デザインは何かのための機能であり、アートとは「問い」である、といったことを『“デザイン”と“アート”の違いとは?』という記事でも書きました。土佐派も狩野派も、問ではなく、宮廷や将軍たちのために、絵を描く工房として発展してきた組織に近い。そのへんが、とてもおもしろい構造です。そもそもですが、江戸時代まで、メディアって読み物か絵しかありませんでした、ほとんど。なれば、その重要性も必然増すというものです。次回は、この土佐派としのぎを削った狩野派をご紹介していきます。


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参照






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