1945年、祖父母と伯母と胎児が、満州から引き揚げるまでの話
第二次世界大戦中、ある日、祖父の元にもついに≪赤紙≫がきてしまった。
祖父は兵役検査に行ったが「肝臓が悪い」という診断が出て、兵役は免れた。家族や親戚一同はその結果に安堵し、喜んだらしい。今の日本なら、この反応は普通で自然なことだろう。
しかし、当時、兵役検査に落ちることは「不名誉」「非国民」などと呼ばれ、道を歩いていると石を投げられたり、家族からも白い目で見られたそうだ。
では、なぜ、家族や親戚一同は喜んだのか。それは、家族や親戚の男性の中で赤紙が送られてきたのは、祖父だけだったからだ。
それには、祖父母の家族や親戚のある事情が関係している。当時、兵役を免除されるには、実はいろいろな事情や方法があったのだ。
✔️堂々と戦争を反対する
家族や親戚の男性の一部は、宗教上の理由で表立って戦争に反対していた。そのため、牢屋、今でいう拘置所に容れられたらしい。しかし、政治犯とは区別されて、拷問を受けることはなかったらしい。ちなみに、お坊さんなどは最初から兵役免除をされていたらしいです。
これらの親戚は戦中や終戦後、無事釈放された。それと入れ替わるように、A・B・C級戦犯が捕らえられる。日本の思想信条が一夜にして、ガラリと180度変わった瞬間である。
✔️旧帝国大学の理学部物理学科や工学部機械科に在籍する
理学部物理学科は核兵器、工学部機械科は軍事用飛行機の開発に必要な人材であると日本政府が判断したため、それらに在籍中の学生や研究者は兵役を免除された。
宮崎駿監督の『風立ちぬ』には、そのときの飛行機の開発に関する若者の苦悩が書かれている。
まさに、工学部機械科に進学した親戚の男性の一人は、戦後数十年経って、長年の飛行機の開発が認められ、国から勲章を授与される通知がきたが、それを断っている。
「工学部機械科に進学した理由は、兵役免除のため。それで自分の命は助かったのに、自分が開発した飛行機でたくさんの命が奪われてしまったから」
という断った理由を心の奥底に閉まったまま。
✔️兵役検査に引っ掛かるために、当時の一部の男性が、検査直前に⚪️⚪️する
✅目潰し、指や腕を切り落とす。自分自身でやったのだから、凄絶である。
✅検査直前に、お醤油を大量に飲む。一時的に体温が異常に上がる。絶対、真似しないように!
✅検査直前に、砂糖をたくさん食べる。肝臓の数値が悪くなるらしい。あれっ?! まさか?! もしかして、祖父もそれをやっちゃった?! 真相は藪の中ですが、もし、祖父がわざと砂糖を大量に食べたとしたなら、わたしは祖父を誇りに思うし、感謝しています。
もしも、そのタイミングで祖父が兵役に行って死んでいたならば、祖母と伯母の二人だけが残され、もう一人の伯母と母はこの世に存在していません。つまり、わたしも存在していません。
どうにかこうにか兵役を免れた祖父であったが、私立大学の哲学科に在籍中に、大学野球でピッチャーをしていたので、日本政府から語学と運動神経が見込まれて
「満州(中国)に通信の仕事に行くように」
と命令が出てしまう。≪通信≫とはあのことなのではないだろうかと勝手に想像してみるのだが、祖父が満州で具体的にどんな仕事をしていたかはまったくもって不明である。祖父はそのときのことを一切他言せず、墓場まで持って行ったからだ。
祖父は、妻と長女を連れて、一家で東京から満州へ渡る。
意外だと思われる方もいるかもしれないが、戦時中であっても、沿岸部に暮らす中国人は、祖父たち日本人に親切で、食料や物資も豊富にあったらしい。
ちなみに、親戚の一人は、この時代に満州の大学に留学していたが、やはり、中国人の学生も先生も日本人学生に優しかったらしい。
しかし、在籍中に終戦を迎えたこの親戚は、国家間の決まりで満州の大学にいられなくなり、日本政府に「すぐ帰国して、東京大学か北海道大学に編入すること」と言われ、北海道大学を選択している。この親戚曰く「終戦の混乱で、世界中にいた日本人留学生を政府が適当に旧帝大に割り振った」とのことである。
比較的平和な時間を過ごしていた祖父一家であるが、ついにその日が来てしまう。
日本が戦争に負けたのだ。
「すぐに満州から引き揚げるように」
日本政府から通知が来た。しかも、満州にいたときのたくさんの家族写真を
「写真に映った背景をすべて切り取って、捨てるように」
という命令も出る。スパイを疑われたら、満州側に捕まるというのがその理由であった。しかし、満州を出る際、満州側は写真のチェックをしなかった。だから、日本に帰ってきてから何年も何十年も経っても、それらの人物だけになった写真を見ては、祖母は
「切り取るんじゃなかった」
と、つぶやいたそうだ。人物のまわりをガタガタに切り取られた写真というのは、何とも味気ないものだ。
まさに、逃げるように、急いで荷物をまとめて、祖父母と伯母は港に着いた。このとき、伯母はまだ小さかったが、一家は沿岸部に住んでいたことと、子どもが一人だけであったので、一緒に日本に連れて帰ってくることができた。
子どもと一緒に日本に帰ることは、当時の満州では当たり前ではなかった。
このとき、満州の内陸部は地獄と化していたからだ。
内陸部から港に行くまでには、距離と時間がかかりすぎる。何日かかるかわからない。小さな子どもたちは歩くのがどうしても遅くなる。子だくさんの家族なら尚更大変である。港に着くまでに飲食物も足りない。親たちは断腸の思いで我が子を中国人に預けたり、置いていったりした。
その子どもたちが中国人に育てられて、戦後、中国残留孤児(今は、中国残留邦人と名称が改められる)として、日本に訪れて日本人の肉親を捜したり、対面する様子が毎年テレビでしばらく放送されていた。
港に着いたとき、たくさんの日本人が詰めかけていたが、祖父母と伯母は優先的に船に乗ることを許可される。
祖母は、そのとき、妊娠8ヶ月だったのだ。
母体保護というよりは、戦争でたくさんの日本人が死んでしまったから、人口を増やすために政府は妊婦とその家族を優先的に搭乗させた。
日本政府が用意した船は、3艘あった。
祖父母は、真ん中の船を選ぶ。
3艘は、船と船との距離を十分に空けて、日本へ向けてゆっくりゆっくり進み始める。
戦争が終わったからといって安心はできないからだ。いや、戦争が終わった直後だからこそ、海の中にまだ魚雷(ミサイル?)が潜んでいるのだ。
結局、 1艘目と3艘目の船は魚雷(?)に当たり、乗っていた方々は全滅。2艘目に乗っていた人たちだけが、無事に日本に帰り着くことができたのだ。祖父母たちは、3分の1の確率で生きながらえた。
1艘目と3艘目に乗っていた人たちには、日本の山や陸地は見えていたのだろうか。あともう少しで故郷に帰れたに違いない。不安と希望を胸に抱いて船に乗っていただろう。爆発し、沈み行く船の中でどれほど無念だっただろうか。
船は九州に着くと、そこから何度も汽車を乗り換えて、日本上陸から2~3日かけて、東京の自宅がある近くまで戻ってきたのだ。
東京大空襲により、焼け野原となっている地域もあった。果たして、家は無事に立っているのか?!
本日は、ここまでになります。
数十年前に母から聴いた話を中心にまとめましたが、母が生まれる前の話であり、母もわたしも記憶が定かではない部分もあります。なるべく憶測では書かないようにしましたが、一部想像も含まれています。また、 6年くらい前と15年くらい前にそれぞれ出会った人から初めて聴いた事実を書いたり、テレビ番組や書籍やアニメ映画から知った事実も書かせていただきました。
わたしには子どもがいませんので、どこかにこれらの体験を残さなければ、戦争の記憶が薄れてしまうと思って書きました。
長文を最後まで読んでくださって、ありがとうございます。