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「期待されたい」は「信用されたい」と類義だと思う。
たかだか25年、されど25年の人生だ。日々学び続けている。
ライフスタイルを提供するメディアの中に「人に期待しない」という文字をよく見かける。それは、価値観の違いに衝突した時、或いは自分の思った通りに動いてもらえなかった時に、自身が傷ついたりネガティブな感情を持ち込まないためだ、ということはなんとなく頭では分かる気がする。
でも私は「人に期待をしたいし、期待をされたい」。
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「期待をされたい」は「信用されたい」と類義だと思う。
自分の能力や存在を認めてもらいたい、私は確かにその欲が人より強いのかもしれない。自分が誰かに必要とされていることを大きな喜びとして受け取るタイプの私は、期待をされないことの方が虚しい。
存在意義を見いだせない、負荷のない時間は、精神的孤独を感じやすくなってしまう。寂しい、とにかく寂しいのだ。
勿論、誰にも束縛をされない・自分のペースで、という捉え方をする人もいるのだろうが、私はダダっ広い砂漠に一人放り出される、そんな感覚がしてしまう。道を訪ねたくても周りには誰もいないのだ。
だから「期待をされたい」。
期待をされるということは、近くに誰かが必ずいることだし、その人からの信用が与えられて「期待」になっていると思うから。
そして、自分がそう思うからこそ、「期待をしたい」。
これは圧ではなく、失敗しても構わないから、すぐそばでひっそりと応援をし続けてあげたい、困ってれば微力でも助けてあげたいし、なんなら一緒に課題に取り組みたい。
そうやって協力し合うことを、「期待」というのではないか。
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最近、コロナと繁忙期とダブルパンチにより、また殺伐とした空気が流れる職場でそんなことを痛感しているのです。
よく面倒を見てくれる先輩の期待が嬉しいし、期待に応えたいとも思う。そして一緒に頑張っている同期や後輩と励ましあいながら日々過ごすことで、距離感を取りながらでも、例えアクリル板越しの会話であっても、LINE上のやりとりであっても、孤独ではないことを強く実感する日々を過ごしています。
あまり、重苦しく考えないで何事も深読みせずに、お互い「期待し合う」というのは今のご時世、意外と相性ピッタリかもしれません。人間一人ではないはずだから。