はたして、わたしの愛を受けとれるか
2019年からご縁をいただき5年目を迎えた、世界で活躍するグローバルリーダー育成を目指す、オンライン大学の仕事。組織論基礎という科目で、専属のラーニングアドバイザー(LA)として、学生の(満足度ではなく)学びのために、厳しいフィードバックをして、チームを作っていくことがお役目。今年は、映像コンテンツの一部撮り直しや構成をリニューアル、他LAの採用や評価基準含め、気づけば勝手にコンテンツプロデューサー/ディレクター、自分がいなければまわらない自負がある。
組織とは何か、答えのないふわっとしたものに対して、自分なりの解を見つけていく。講義の内容を、机上の空論で終わらせず、グループワークで実際にぶつかりながらチームを作っていく。毎年色んなドラマが生まれるのだが、今年も痺れる展開に。これだから、学ぶことを、探求をやめられないんだ。
仲良しクラブでいいのか
あるチームでは、チームの中心人物である若く事業経験のある、“大人びた”学生がチームを取り仕切っていた。その態度が、常に上から目線で、人を小ばかにしたような、完全に先生やLA、講義や大学をなめている。自論や自分のスタイルがあるのはいいが、素直に学ぼうとする姿勢ではない。
彼を中心にMTGがまわっていく中、メンバーに対しても悪気なく失礼なことを言うが、違和感があっても、誰も彼に物申す人はいない。傍から見たら、メンバーが彼をみて発言する、トップダウン的な構造になっていることに誰も気づいていない。
そこで、私が客観的な視点から問いかけていくのだが、夜遅くまでわいわい話して仲良くやっているのに、わざわざチームが揺らぐようなフィードバックをするなという。同質性が高く、場をわきまえた”大人”の集まりの場合、チームに異質なもの、つまり反対する意見や多様性が入ってきた時に、敵対視し、自分たちを守ろうと自己防衛する傾向がある。LAである私に対して、フィードバックが間違っているとか、メンバーとして仲間に入れてやってもいいけど、あまり評価できないなど、今となっては何様のつもりなのだろう。悪いけど、みている視点が違う。
学生対LAという対立関係ができ、フィードバックが求められない今、私はチームを離れ、突き放すことで、最後のメッセージを残した。そのことが、彼以外のメンバーに、強烈な不安と罪悪感を与えた。
私に対して謝罪したい、もう一度チームと向き合ってほしいと声が挙がる中、張本人は全く響いていない様子。自分以外のまわりにこれだけ負の影響を与えていることに気づいていない。そもそもフィードバックを拒むことで、チームが学びの機会を損失していることに、リーダーとして責任感はないのか?
もちろん彼自身がすべて悪いと言っているわけではなく、友達だったらいい奴で、仲良くやれるだろう。けど、私は指導者として、これから社会で活躍する真のリーダーを見極める立場から、彼の言い方や立ち振る舞いは誤解されるところがあり、社会にでてから取り返しのつかない失敗をする前に、うまくいかない現実を突きつけることで学び、成長して欲しいと願ったのだ。今はフィードバックを受けとめられなくても、将来躓いた時に、誰かを通じて何かしらの形で彼の耳に届くこともあろう。人間、誰に何を言われようと自分の身で経験して学ぶしかない。
さて、この件は、話したいと声を挙げてくれた学生と個別に話をしながら、チームの中からみるのと外からとでは見え方は違うこと、チームに何が起こっていたか解説し、個々人が大きな気づきを得たことは嬉しい。
ただ、あるメンバーの振り返りをみて気づいた。このチームは仲良しクラブになりたかったのだ。みんな傷つかないように、優しく寄り添い、お互いわかち合うことを目指していた。都合のいい、尊重や心理的安全性。エモいかどうかなんて、正直どうでもいい。心地悪くても、本気で挑戦したか?そこから何を学んだか?講義が目指す、本音でぶつかって、これまでの自分に対して破壊を起こし、人間的に大きく成長しようとすることとはかけ離れている。
倍返しされるようなことをしたか
別のチームで、ある学生が何気なく、私に対して言った「倍返ししますよ。」違和感があったが、妙に納得した。多くの学生は、フィードバックなんか求めていない。傷つきたくないし、自分と向き合うのが怖い。仲良しクラブを目指していたチームの例でも、私の意図が全く伝わっていないと大学側から指摘されたのだが、なぜ一から十まで説明しないといけないのか?そんなの自分で考えて、学ぶものだろう。失敗しないように、傷つかないように、その配慮は何のために必要なのだろうか?
誰が悪いわけでもないが、社会や教育の構造や文化にうんざりしてしまった。どんなに海外の最先端のフレームワークを取り入れようと、土台に根付くカルチャーがそうなのだ。どうしようもない虚しさを味わった。そして、手放したいと思った。お恥ずかしながら、頭に熱がこもってオーバーヒート状態、珍しく夜も寝つけず、お金を数えることもままならない。偶然、横浜でアーユルヴェーダをやっているスリランカ人の方に出会い、シロダーラ(第三の目である額にオイルを流し続ける)で脳のデトックス。今回の葛藤は、彼女に出会うためにあったと自信を持って言える程、ズバッと必要な言葉をかけてくれた。どうしようもないことにこだわって、あれこれ考えても仕方ない。過去起こったことは、無駄に反省して、自分を責めても解決しない。不必要な議論はしない。あー、もう、やーめたっ!
愛のフィードバック
心から信頼するメンターに相談して、自分の軸に立ち戻れるよう、私の人としての良さを教えて欲しいと、フィードバックをもらった。やっぱり私は愛の人。愛を受けとめられないなら、受けとらなければいい。受けとるかどうかは、あなた次第。
全体をみている:個々との個人的な向き合い(感情を分けて)より、全体にとって何がよいか?独りよがりの欲、承認欲求(私をみて、褒めて)ではない、大きな目的と視点で、その場がどうしたらよいものになるか常に考えている。愛、博愛がベースにある。みんな同じテーブルについて、対等に話そうという世界観。
直観力:直感的に、違和感を感じ取れる。最初の直感がほぼ当たっている。頭で考えて、理由付けして言葉にできるが、それより感覚が大事。
見た目とのギャップ:ど直球の重たい球を投げる。ワンクッション置いて「今からちょっときついこと言っていい?本当は言いたくないけど、あなたのために。」と前置きするとよい。自分の中では全ての情報や事柄が繋がり辻褄が合っているが、相手はそうじゃないため、唐突感でびっくりする。綺麗な人は、お高くとまって残念か、(顔はいいけど)バカなのかを期待。どちらでもない場合理解できず、相手は敵と感じて、攻撃してくる。顔の華やかさが、今世で乗り越えるべき壁。誰に伝えれば伝わるか見極め、わからない人は相手にせず気にしなくていい。
IからWEへ
昔、大阪に転勤し営業の新人時代に、新人賞をとったことがある。表彰式で「やったぜ、大阪!」と拳をかかげた。本社があった東京に対して、大阪は支社で小さなオフィス。あまり光が当たらない地味な場所で、新人が結果を出して、それを大阪チーム全体で喜ぶ。仲間意識、絆、肩を組んで大阪の勝利を祝福した。これが私のチーム精神であり、愛。I(私)からWE(私たち)へ。自分たちは、どう在るか?
パリオリンピックで、卓球の早田ひな選手が、集合写真でリザーブの選手に銀メダルをかけて一緒に戦ったメンバーを称えた姿。メディアは心遣いがすごいと報道していたが、心遣いなんかじゃない。彼女の生き方であり、在り方なのだ。私も今一番行きたい場所は、知覧なのでシンパシーを感じる。わかる人には、わかる。それでいいのかもしれない。