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婆ちゃんが死んだ日のはなし

 2020年7月婆ちゃんが死んだ。家族みんなが婆ちゃんを囲んで医師から死亡宣告を告げられる。

 「7月25日午後7時25分御臨終です。」

 なんて覚えやすい数字なのだろうと思った瞬間母がふふっと笑った。どうやら私の心の声は、実際に言葉にしてしまっていたらしい。なんだかこの偶然婆らしいね。と母はもう起きることのない自分の母親に向かって涙目で微笑んでいた。

 「今から病院に来てください。間に合わないかもしれません。」

 と病院から電話が掛かってきて、すぐに私たちは車を走らせた。19時すぎ頃だったと思う。着いたときには一目みて魂が身体(そこ)にはないことを理解した。抜け殻になった身体はどうしてこんなにも寂しい気持ちにさせるのだろうか。私は温かさの残る婆の顔を撫で「やっと楽になれたね」と話しかけた。

 享年86歳。透析歴32年、同じ病院の透析患者の中で二番目に長い患者だった。いわば御局様だ。週三回の透析の送り迎え、車椅子の生活、一時寝たきりになりオムツを替え、ご飯を食べさせる生活が続いたこともあった。それでも婆と母と私はいつも笑っていた。面倒だと思うこともあったし、制限されることもあったがそれでもわたしたちはお腹を抱えて笑っていた。

 いつも、楽にぽっくり逝きたいな。と嬉しそうに言っていた。その割にまだまだ生きる気は満々だった。服好きな婆の車椅子を押してしまむらによく服を見に行った。靴下が欲しいと言ってカゴにいれたものは赤ちゃん用の80センチのタイツだった。「目が悪くて気づかなかった。危ない危ない。」といって私たちは涙が出るほど笑った。結局その日はクリーム色のトレンチコートを可愛いし安いし着やすそうと言って買っていた。通院の時はお気に入りの青いスカーフを必ず巻いていた。病院服が嫌だからとサテン生地のどピンクパジャマを着て治療を受けていた。

 婆は畑仕事とお花が大好きな人だった。何年も前の敬老の日に胡蝶蘭を奮発してあげたことがある。こんな高い花じゃなくていいのに、と驚いていたがその胡蝶蘭は3年後には株分けをして5倍ほどに増えていた。花が好きなくせに鉢植えを買うのもしぶるほどドケチを極めていた婆は株分けした胡蝶蘭をカップラーメンの容器で育てていた。胡蝶蘭とカップラーメンの組み合わせなんてこの家以外で見ることは一生ないだろうとなと大笑いしたことを今も覚えている。いつどこで婆を思い出しても笑っている姿しか思い出せない。いつも隣には私と母がいた。

 亡くなる10日前その時は突然やってきた。その日は母がひとりで婆の透析を迎えに行って、帰りの車の中でお昼ご飯はどうするかという話をしていると急に返答がなくなった。「婆?聞いてる?」と横を見ると口を開けて薄目で天井をみていたらしい。意識は既になかった。気が動転したまま母はUターンし病院に向かった。

 脳梗塞だった。幸い処置が早かったのでその日のうちに意識は戻ったが、左半身不随といわれた。「婆が一番嫌がる状況になってしまったね、私たちに迷惑をかけることをあれほど嫌がっていたのに。」と母と肩を落としながら婆の病室に入ると呂律が回らないなか「めいわく、ごめんな、頭がいたい。」といいながら左手で自分の頭を指差していた。私と母は目を見合わせ、この人の生命力はどうしてこうも強いのだろうかとまた笑った。

 けれど私と母が婆に会えたのはその日が最後だった。

 コロナ禍で面会は完全禁止になっていて、それから10日後の7月25日婆はひとりで遠いところに旅立って行った。私と母はあまり泣かなかった。そう苦しまずに逝ったことに安堵していたのだ。それから2日後、棺にいれられ火葬される時間がきた。最後のお別れの時、わたしたちは嗚咽が出るほどたくさん泣いた。二度とこの目で婆の姿をみることができないという圧倒的な寂しさが私と母を襲った。

 「本当に楽しかった、ありがとう。」「婆と一緒に暮らせて幸せだった。」「楽になって良かった。何十年後かにまた会おうね。」そう言ってわたしたちは婆と本当のお別れをした。

 戦争を知っている婆の人生は辛いこともあったし苦しいことも沢山あったはずだ。32年間の透析生活の辛さも私たちの想像のはるか上をいくだろう。けれど、わたしたちと過ごした時間の婆はとても幸せだったと思う。何より私と母が心の底から幸せだったのだ。婆と過ごせる時間がそう長くはないことをわたしたちは知っていた。だからこそ後悔のないように毎日を積み重ねてきたし、その時間を与えてもらっていることに感謝していた。

 生き物はいつか皆死んでいく、生き物に唯一平等に与えられているものがあるとしたらそれは死だけなのだろう。遺された者たちはまた、その人が居ない生活に慣れていく。それでもふと思い出すとき、思い出の中の自分はどうか笑顔であってほしいと思う。子どもと孫に「あなたと居た時間本当に幸せでした。」と笑って泣いてもらえる人ような人生が不幸せな訳などない。私も婆のような人になれるだろうか、子ども達に「やっと死んでくれた。」と言われることだけは避けたいところだ。

 私が逝く時の話は数十年後、先に待っているであろう母と婆に教えてあげたい。もしかしたら空の上からは見えているのかもしれないけれど。

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