誤読#0 あるいは、詩を楽しむ手がかりとして
はじめに
次回から〈誤読〉と銘打って、気になった詩の感想を書いていく。今回はその前段階として〈誤読〉を行う目的やその目指す在り方を文章として残しておきたい。
最初に結論を言う。備忘録としての役割や自分が良いと思った作品を広めたいという目的のほかに、「詩はわからない」と思っている人に対して、〈誤読〉が詩を楽しむ手がかりのひとつになればいいと考えている。
そして、そのような目的を持つならば、「詩のわからなさ」という問題を無視することはできない。実際に、僕も「詩はわからない」や「詩は難しい」といった言葉を、友人から聞いたことがあるし、僕自身も特定の作品に対して「わからない」と感じることが正直ある。
これから「詩のわからなさ」とそこに伴う問題を整理しながら、手がかりとしての〈誤読〉が目指すものを明らかにしていこうと思う。
〈わかる〉ことと〈共鳴できる〉こと
「現代詩手帖」2021年4月号に掲載されている、豊崎由美と広瀬大志の連載対談「カッコよくなきゃ、ポエムじゃない!」の第8回「カッコいいし、難解詩」では、正面から詩のわからなさを扱っている(ちなみに、ほかの回では対談中に米津玄師やあいみょんなどのポップスの歌詞が話題になったりして、この連載対談はどの回も興味深い)。この回で広瀬は詩の「難解ポイント」をまとめている。以下にそれを引用する。
1.言葉の使い方
①知らない単語が出てくる(漢字、哲学・科学などの専門用語、古語)
②文脈の意味がとれない(言葉のつなぎ方のレトリック、自動筆記的な書き方)
③表現されたことの意味がわからない(比喩やイメージの多様化)
④書き方が難しい(小難しい文体、堅苦しい)
⑤見た目が読みづらい(句読点のトリッキーな使い方や一行の長さ、レイアウト)
2.詩のモチーフ
①モチーフに同調できない(一般的でない、生活感がない、現実味がない)
②イメージが作れず感動できない(虚構、実験的、言葉遊び)
――思潮社「現代詩手帖」2021年4月号、p135
個人的には、詩には〈表現としての言葉〉の側面が強く存在すると考えている。意味を伝える手段としてだけ言葉があるのではなく、言葉そのものが目的として表現されているのだ。一方で〈意味伝達手段としての言葉〉はその名の通り、日常生活の会話やニュースや新聞で使われる言葉などを思い浮かべてもらえばいい。引用した「難解ポイント」は〈表現としての言葉〉の在り方の種類なのだ。そして、〈表現としての言葉〉を〈意味伝達手段としての言葉〉として読むと「わからない」となってしまうのだと思う。
もちろん、詩の言葉すべてがそうであるわけではない。作品によって〈意味伝達としての言葉〉と〈表現としての言葉〉のバランスは異なる。だから、ここで〈わかる/わからない〉の縦軸を設定してみようと思う。
次に、これは僕の実感であるし、詩に触れている多くの方が言っていることでもあるのだが、わからないけれど良い詩は確実に存在する。広瀬は前述の対談の中でこうも述べている。
詩の魅力というのは読んでいてわかった気持ちになる、つまり共鳴する愉しみではないでしょうか。音楽で何が表現されているは明確にわからなくても、自分のなかでわかったものとしてそれを素敵でカッコいいものとして許容するでしょう。詩も同じではないでしょうか。
――同上、p134
ここで音楽が引き合いに出されている点が非常に重要だろう。詩から受ける感動は音楽や絵画などと同じように、本質的には非言語的なもので「わかった気持ちになる」しかないのだ。これは詩に〈表現としての言葉〉の要素が強く、言葉によって非言語的なものを表現している面があるというのが関連しているだろう。
では、次に広瀬の言う〈共鳴する〉を掘り下げていきたい。実際の現象を下敷きにすると、共鳴することとは特定の響きを持った詩を読むことによって、読者の感性(の一部)が震え、心が動かされることだと言える。感動を表現する言葉として「痺れる」という言葉が使われることがあるが、痺れることよりも共鳴することの方が能動的であると考える。ときに、読者に伝達された振動が読者自身によって、もとの詩よりも増幅されることもあるからだ。
そして、〈共鳴〉がただ刺激を感じるのではなく、自分自身が感じた結果の変化そのものになってしまっている点が、この現象が主観的かつ非言語的である理由の一つである。自分が自身の感性の振動を言語化しようとした瞬間に、その言語化という行為に振動が上書きされてしまうゆえに、共鳴の言語化は不完全なものにならざるを得えないのだ。
(これは余談であるが、ある作品の良さを表現するときなどに「エモい」という言葉が使われることがある。「感情的な・情緒的な」という意味のemotionalや「えもいわれぬ」という言葉など、由来として色々な説が挙げられているようだが、「エモい」を含めてそのどれもがどこか大雑把な意味合いの言葉であるのは、共鳴を言語化することの不完全性を表していると言えるかもしれない)
共鳴という感覚は本質的な言語化が不可能なものであり、他者とその感覚を完全に共有することも難しい。そのため、この性質は〈わかる/わからない〉とは別の軸として設定できるだろう。
〈わかる/わからない〉を縦軸に〈共鳴できる/共鳴できない〉を横軸にして、四象限マトリクスをつくると以下のようになる。人がある作品を読んだ際の感覚は、このマトリクスのどこかに位置するのではないだろうか。だから、わからないけれど共鳴できる詩があるし、わかるけれど共鳴できない詩も存在する。
注意する点としては、このマトリクスはあくまで読者視点の話ということだ。作品を書いた作者の視点はここになく、読者が「どう読んだか」に限定されている。また、これは言わずもがなであるが、ある詩に対しての〈わかる/わからない〉と〈共鳴できる/共鳴できない〉は絶対的なものでなく、読者の数だけあると言える。
僕はどのように詩を読むようになったのか
さて、これまで詩には〈わかる/わからない〉と〈共鳴する/共鳴しない〉という二つの価値基準があるという話をしていた。次に、これまでの話を基にして、詩を楽しむための手掛かりとして、どのようなものを書けるのかという話をしたい。
はじめに、僕の個人的な話をさせてほしい。僕がどのようにして、日常的に詩に触れるようになったかという話だ。
僕が、はじめて自分の意志で詩を読んだのは高校生のころだ。それ以前にも教科書などで詩には触れていたが、読んでいたのはほとんど小説だった。ただ、創作については小説がメインだったものの、詩も少し書いていた。書いていた詩はその頃聴いていた曲の歌詞にインスピレーションを受けたもので、そんな状況である日、ふと詩集を読んでみようと思い立ったのである。同時代に出版されている詩がどんなものなのか気になったというのもある。
そして、一般に現代詩に分類される詩集を読んだ感覚を前述した価値基準で表現すれば、わかる部分とわらかない部分があったが、共鳴できる部分があったということになるだろう。なんだか婉曲な言い方になってしまったが、僕はこの詩集を新鮮な面白さを感じたのである。
その後、僕は別の詩人の詩集も何冊か読んだ。しかし、それらの詩集は最初の一冊と違って、さっぱりわからなかったし、共鳴できなかった。ただ、それからも僕は、共鳴できた最初の一冊を読み返しつつ、折に触れてはわからず、共鳴できなかった詩集も流し読みしていた。「やっぱりわからないなあ」と思いながら、である。
そんなことを繰り返していたある日、今までわからなかった詩集の一冊を体感で二割ほどわかった気がした。閃いたというよりは「…こういうことなのかな」といった頼りないものだったが、その二割をきっかけに、僕はその詩集を面白く読むことができるようになった。
つまり、僕はわかるにしたがって共鳴できるようになったということができる。ちなみに、その詩集は今でも三割くらいしかわかっていないけれど、とても共鳴できる詩集である。
それからも色々な詩集を読んだ。わからないまま読み続けていたら、一年後くらいにわからないまま共鳴できるようになった詩集もあった。わかるけれど共鳴はしないまま詩集を読み進めていたら、巻末の作品論を読んだあとで読み返したら突然共鳴するようになったこともある。
とまあ、僕はこのような経験をしながら、日常的に詩を読むようになった。そんな僕が(あくまで自分の実感の範疇から)詩にわからなさを感じている人に対して、詩を楽しむ手がかりを提示できるとすれば、それはどんなものだろうか。
まずは〈わかる〉ことから
まず、自分の体験を考察してみると、以下のことがわかる。
一つ目。僕にとっては最初、詩を読むにあたってはわかることが重要だったということ。僕自身が感覚よりも理屈を重視するタイプだったことや、それまで主に小説を読んでいたことなどが影響していると思う。〈わかる/わからない〉と〈共鳴できる/共鳴できない〉は完全に独立した感覚ではなく、人によってわかることと共鳴することの関連度が異なるのだ。最初の一冊についても、一部でもわかったから共鳴したのだと思う。そして、二冊目以降の詩集を繰り返し読むことができたのも、最初の一冊が成功体験になっていたと言えるかもしれない。
二つ目。詩集を読むことそれ自体によって、共鳴するということが体感できるようになったということ。最初はほとんどの詩集をわかろうとしながら読み続けていた。その状態で読んでいるうちに、わかることと無関係に共鳴する感覚がつかめるようになったのだ。
ある程度詩集を読むようになってからは、最初から響いてきた詩や、読み続けることで少しだけわかるようになり、それに伴って共鳴できるようになった詩、そして何一つわからないままに共鳴できた詩もあった。今でもわからないし、共鳴できない詩はあるが、いつか共鳴できるようになると信じて読み返している。
では、さらに上の二つを整理してみる。僕は詩を読むにあたって、最初は間違いなく共鳴することよりもわかることを重視していた。多分、もともと理屈で物事を判断しがちなところや、小説を主に読んでいたことなどが影響していると思う。そんな状態から、わかることを手がかりに詩を読み続けることで、次第に共鳴することへの感度が高まっていったのだ。
だからこそ僕はこう考える。詩をわかることの手助けになるような文章があってもよいのではないだろうか、と。
詩には〈わかる/わからない〉なんて関係ない、という考え方がある。それは主に共鳴することの方が重要であるという趣旨であり、素晴らしい作品をいくつも書いている詩人たちがその旨の発言をしている。それは間違いなく正しいのだろうし、僕も同意する。
でも、詩に興味があるけれど、詩のわからなさに阻まれている人からすると、その意見は正しいけれど優しくないのではないだろうか。その人が「詩がわからないんです」と言ったときに、「わかるとかわからないなんて些末な問題だよ」と応えたとしても、その人のわからなさが消滅するわけではないのだ。多分、そう言う人は詩を読むハードルを下げようとして言っていることは想像がつくけれど、実際にはむしろハードルが上がってしまっているように思う。結局、そう言われた人は「そうは言ってもわからないんだよなあ」と思いながら詩から離れてしまうのではないだろうか。
だから、僕はわかることから詩を読み進めた人間として、僕はそういう人たちの手がかりになるようなものを書きたい。具体的には、ある種のわかりやすさを意識した、詩の感想や考察をnoteやその他の媒体に投稿する。そこには、たとえば前述した「難解ポイント」に対する考察や解釈があり、僕がどのようにその詩を楽しんでいるかがある。わからないけれど共鳴できた部分があれば、それが本質的に言語化できないものであると理解した上で、できる限り言語化するつもりだ。
〈誤読〉は、詩のわからなさに敷居の高さを感じている人や詩歌なんて全然読まないという人に届いてほしい。とても具体的に言ってしまえば、普段から本を読むけれど、詩歌は読んだことがないという人に届いたら嬉しい。
そして、僕の楽しみ方を一つのサンプルにして詩歌を読んでほしい。僕が深読みするときは妄想に近いレベルでしている。作者の書いた意図をほとんど意識せずに、自由に読みを楽しんでいる。そういう意味ではまさに誤読であるが、その誤読を詩の豊かな可能性につなげていきたいと思う。そして、このようなやり方で詩を楽しんでいる人間の存在と、その様子を文章として残せば、ボルダリングで最初に手をかける石くらいの存在にはなれるのではないか考えている。
何事も始動には加速よりも力が必要だ。スピードに乗ってしまえば、〈誤読〉とは無関係にその人なりの感性によって詩がわかってくるだろう。そして何より、その人なりの感性で共鳴することができるようになるはずだ。
ここまで僕は、詩の〈わかる/わからない〉を観点にしてきたが、詩の魅力はやはり共鳴することだと思う。繰り返すが、詩には〈わかる/わからない〉なんて関係ない、という考えに僕は一部で賛同している。詩に共鳴したときのあの感覚は本当に言葉では言い難く、それゆえに尊いものだと僕は感じている。だからこそ僕は、共鳴に至るまでの入り口としてわかることがあっても良いと考えているのである。そして〈誤読〉は共鳴に至るまでの、始動に必要な力の一部になりたいのだ。
補足、あるいは蛇足
一つ目。これまでの話はいち読者としての意見であり、書き手としてのスタンスとは無関係である。つまり、自分がわかることを手がかりに詩を読んでいたからと言って、僕自身が詩をが書くときに〈わかりやすさ/わかりにくさ〉を第一に考えているかと言われればそうではない。本稿における詩の〈わかりやすさ/わかりにくさ〉とは、読者にとってどうであるかということであって、それを書き手がコントロールすることには限界があると僕は思う。だから、創作者としての僕に〈誤読〉を持ち込むことはない(今のところは)。
二つ目。〈誤読〉はあくまでも僕が気になった作品への感想という体裁を崩すことはない。具体的に言ってしまえば、〈誤読〉をある種の教材のようにするつもりはないし、やはりそんなことはできる気がしない。だから、扱う作品も純粋に自分が気になっているものだけであるし、(そんなものがあるかどうかは別として)わかりやすさを紹介するのに適している作品を最初に紹介して、少しずつ難解な作品に扱うようにする、なんてことはしない。あくまで、僕が詩を楽しんでいる様子をひとつのサンプルとして提示するだけだ。
そして最後に。共鳴するために、まずわかることから始めるという、僕のこの考え方は、あくまでも僕個人の体験から導かれてきたものでしかない。だから、〈誤読〉を手がかりにできる人は、僕と似たようなタイプの人間に限られると思う。たとえば、わかることを中継せずにいきなり共鳴できる人だっているはずだ。あるいは、僕が思いつかないような段階を踏んで日常的に詩に触れるようになった人だっていると思う。だから、いま日常的に詩に触れている人で一人でも詩を読む人が増えてほしいなと思っている人がいたら、自分なりの手掛かりや道筋を教えてほしいし、何らかの形で発表してくれたら嬉しい。特に、僕の考え方に同意できなかった人の意見は、〈誤読〉が届かなかった人への手がかりになる可能性が高いのだ。そうやって、様々な人がそれぞれの考え方で手がかりを残すことは、より多くの人々が詩を楽しむための架け橋になると思う。
さて、長くなってしまったが、これが僕が〈誤読〉を書く理由と目指すものである。最後に第一回へのリンクを載せる。興味がある方はぜひ読んでみてほしい。
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