誤読#1「うまれisなやみ[Explicit/閲覧注意]」江永泉
今回から〈誤読〉として、気になった作品について感想や考察などを書いていく。〈誤読〉を行う目的などは以下の第0回にまとめた。先に読んでいただけるとありがたい。
初回で扱う作品は、江永泉の「うまれisなやみ[Explicit/閲覧注意]」だ。この作品は北上郷夏が中心となって企画され、noteで発表された詩誌「孤、その他」に掲載されている。以下にリンクを貼るので、未読の方はぜひ先に読んでいただきたい。ほかの方の作品もとても興味深いものばかりだ。〈誤読〉第0回で入門編のような形で感想は書かないと述べたが、図らずも初回の作品は読むためのハードルが非常に低いものになった。
タイトルの「うまれisなやみ」という部分は、有島武郎の『生まれ出づる悩み』からきているのだろうか、と思いながら読み始めた。そして僕は一読して、この作品の語りと、その語りが内包する問いかけに魅了されてしまった。
早速、冒頭の箇所を引用する。
0.
あなた、わたし、過去、かご、籠の中、とり、こ、ことり、虜、ことわり。かいごろし。
音と言葉のイメージが連想ゲームのように言葉が結びつきながら展開していく語りである。その歩みから、螺旋階段をゆっくり降りていく様子を想像した。
〈男も女も、ことばを、産める。〉※注1
そして、唐突にこの一文が挿入される。注釈がつけれらている通り、これはある広告文からの引用である。詩の途中に引用が、しかも広告文の引用が挿入される語りが、僕には非常に興味深く感じられた。直後にも、前述した途切れ途切れの語りの中に、再び同じ文章が別の注釈をつけられて引用されたり、さらにはゲーテ作詞、シューベルト作曲の『魔王』の一節までもが引用されたりする。
僕はこの引用が完全な第三者的な言葉だとは感じられなかった。むしろ第三者的な言葉でありながら、限りなく語り手の語りと混じり合っていると思った。この詩の語り手(「わたし」)にとっては、自分の外部にある他者の言葉が、自分の言葉と同じ重さで内部に存在しているのだ。僕はこの語りのあり方から現代を生きる人間の姿を思った。街には広告が溢れ、スマートフォンなどを介して四六時中情報が流れ込んでくる。その量はとっくに一人の人間が処理できる容量を超えてしまっていて、結果として強すぎる他者性が自分の中に存在している。それは間違いなく、僕自身に当てはまることでもある。
そして僕は考える。そんな状況で自分の言葉はどこまでが僕のものなのだろうか、と。僕の産む言葉は、本当に僕の子なのだろうか。そんなことを考えて続きを読んでいく。途切れ途切れの語りが続き、「xftgy」があらわれる。「わたし」は「xftgy」に対する愛憎を語り続ける。「xftgy」とは何なのだろう、という疑問が浮かぶが、その疑問は疑問のままで語りに身を任せる。
すると、「わたし」は子どものまま「こどもが欲しい」と言う。「先生」になぜ書くのかと問われて、「クローンを作りたいのです」と答える。
それで、わたし、わたし、くりかえして、ようやく、おおもいだす、おもい、だしたい、わたし、こども、だしたい、
ここでは、書くことと子どもをつくることが重ねられている。「おもいだす」→「おもい、だしたい」(思い、出したい)→「こども、だしたい」という展開にもそれは表現されている。子どもは「わたし」の「思い」であり、「男も女も、ことばを、産める」ゆえに、その「思い」は言葉として産まれるのである。子どもがクローンに言い換えられるのも、その子どもが「わたし」の分身である要素が強いからだろう。「わたし」は書き留めることをやめられない。他者である「穏やかに繕った男の人の声」を聴きながら、ゆっくりだが確実に思いを外に出していく。
次のパートである「1.」では語りが変質する。そこには「わたし」と「あなた」、そして「xftgy」がいて、冒頭で「あなたはわたしとしか会話できない」と語られる。「xftgy」は「わたしのxftgy」であるが、同時に「おもい通りにならないもの」であり、「わたしを支配する」。「わたし」と「xftgy」はあらゆる関係性で結ばれるために、「xftgy」は何であるかを定義することができない。ただ、愛憎の対象となるだけである。「xftgy」という読むことのできない名前が与えられているのもそれが理由だろう。
さらに、「わたし」と「あなた」の関係も判然としない。最初、僕は「あなた」=「xftgy」だと思っていたが、何度か読んで一概にそうは言えないと思い直した。それどころか、「わたし」≒「xftgy」≒「あなた」なのではないかと感じるようになった。だから、パートの冒頭と呼応した、「わたしはわたしとしか会話できない」という詩句があるが、これは「あなたはわたしとしか会話できない」と全く同じ意味ではないかとすら思ってしまう。
次の連では、ついに「わたし」は「あなた」の傷にアイデンティティを見出したあと、ぽつりと「愛しているなら、傷をくれ」とつぶやく。ドラマ「家なき子」の有名なセリフ「同情するなら金をくれ」のオマージュだろう。ここにも第三者の言葉が入り込んでいるようであり、それによって余計に「わたし」の悲痛さが伝わってくる。
そして、注釈部分を除くと最後のパートである「10.」になると、今までの「わたし」、「あなた」、「xftgy」に加えて、「a」や「シュイバード」、「妹」などが現れ、イメージが氾濫し始める。とてもそのすべてを把握しているとは言えないが、独特のリズムを持つ語りによって奇妙な心地よさを伴いながら読み進められる。
かろうじて「わたし」が「赤ちゃん」として言葉を産んだことは想像できる。しかし「xftgy」に「赤ちゃんを取りなさい!」と言われたとき、「わたし」は「望むものが明確ではない」と語る。そして、「ごめんなさいxftgy」という懺悔によって、再び語りはモチーフの氾濫を伴ったまま混乱していく。
僕は「xftgy」を「わたし」の言葉が産まれてくる、創作上のブラックボックスなのではないかと考えた。表現を変えれば、言葉が生まれてくる母胎だろうか。だから、「わたし」よりも「xftgy」が「わたし」の言葉に執着があるのかもしれない。「xftgy」が「赤ちゃんを取りなさい」と言うのはそのためだろう。
そして、「さらば、わたし!」という宣言によって、「わたし」は消滅してしまう。あるいは、ようやく「わたし」は自らと他者がないまぜになった自分の言葉から解放されるのだ。そして、「わたし」以後に残されているのは「xftgy」であり「あなたの夢」なのである。
僕はこの詩を、内面に自分の言葉と他者の言葉が同居している「わたし」が、最終的に解放される詩として読んだ。
「わたし」は自分の中に他者の言葉が入り込んでいることを自覚しながら、「xftgy」から言葉を産む。当然、吐き出した言葉は自身の完全な「クローン」ではなく、一人の他者である。自身の中に他者があり、しかも吐き出した言葉は他者になってしまう。そのジレンマが「xftgy」への愛憎になり、愛憎は倒錯した自傷行為のような語りに至る。そしておそらく、その痛みも含めて言葉を吐き出さなければ、「わたし」の解放はありえなかったのだ。
さて、この読みには僕自身が映し出されていると言っていい。この詩がそういう作品であるというよりもむしろ、この詩をそのように感じる僕がいること、それ自体が顕在化している。
この詩で過剰に使われている「わたし」が、作者の分身なのか、あるいはそのようなキャラクターとしての存在なのか、それはわからない。ただ、間違いないのは、僕はこの詩の内容というよりも、「わたし」という語り手に共鳴したということだ。しかもそれは、「わたし」に対する作者の思惑を意識することができなくなるほど、強く僕自身を「わたし」に代入してしまった。そういう意味は、僕の読みには弱いところがあることは間違いない。たとえば、文末にある「注3」を僕はもっと重く扱いたかったが、それは上手くいかなかった。その点で僕は、この作品によって生まれた自分の感想によって、逆にこの作品を捻じ曲げてしまっている感覚がある。そしてこの逆転は、詩のラストで「わたし」の消滅後にも「xftgy」が残って言葉を産むという、前述した、従属関係の逆転した構造と相似形であると思われる。
以上で、この作品の感想を終える。
この詩には、このように読者を取り込んでしまうような魔力があると僕は感じた。そういう意味でも非常に「閲覧注意」な作品であると言える。だからこそ、ぜひ皆さんも読んでいただきたい。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。すぐに更新するとは口が裂けても言えないが、第2回もいつか必ず。
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