『ココア共和国』2020年5月号の感想
『ココア共和国』という雑誌に詩を投稿している。ありがたいことに2020年7月号には拙作が佳作に選ばれた。たぶん、こんなにも間口の広い詩の雑誌は他にないのではないか。雑誌のほとんどが投稿された作品で占められていて、バラエティ豊かな作品が並んでいる。
いち読者として雑誌を読んでいて、個人的に素晴らしいと思った作品がいくつもあった。そして、この感動を言葉にしたいと思った。
ただ、僕には素晴らしい評論を書く自信はない。誤読も含まれている可能性も充分にあり得る。だから、これはあくまで作品を読んだ僕の感想に過ぎない(これが予防線であることを僕はちゃんと自覚している)。
そして、雑誌を未読の方はぜひ先に読んでほしい。僕の感想が未読の人の読みを狭めてしまうのはとてももったいないことだ。僕は佳作の作品まで読みたいので電子版を読んでいて、本記事の引用はすべて電子版に依る。
詩を書くためには孤独が必要だ。けれど、自分の詩が誰かに届いたことがわかったら、それは心の底からの喜びになると思う。この文章がそういう喜びに繋がればいいなと、ぼんやり考えている。
前置きが長くなってしまった。早く本題に入ろう。
・「卵焼き」小林
この詩は、〈繋がりそうで繋がらない(でも繋がっている)〉という絶妙な距離感に言葉が配置されていると思った。
卵焼き器のなかで文庫本が焼かれていた。
この詩の冒頭の一文である。卵焼き器と文庫本。この組み合わせは、とても突拍子もなく感じられる。でも、たしかに卵焼き用のフライパンには文庫本がすっぽり収まりそうだなあと納得してしまう。これを読むまで私の世界にはこの組み合わせがなかった。だから、とても好きな一文だ。
そして青く透き通った悲しみを持たぬゆえにこの街には出入り口が無い、というのが誤解であるとわかったときぼくは、撮り溜めた空の写真をすべて削除した。
この一文や一連目の最後の「空の写真ばかり撮っている」というところなど、この作品には飛躍がいくつもあって、僕はその美しさに見とれてしまう。
ひとつの文が比較的長いという点、そして何より散文詩であるということが、この距離感を成立させていると考える。散文詩はひと繋ぎの文章の集まりとして構成される。この詩では、言葉のそれぞれのイメージが文章という流れの中に収められていることで、つかず離れずの距離感が生まれているのだと思う。
・「雨と傷の来歴」吉原幸宏
この詩は世界観が大好きだ。世界観を支えているのは細かいところまで行き届いた表現だと思う。以下の表現が特に好きだ。
そばに置かれた
不透明な花に包まれた時間は
不安定な浮き沈みを繰り返し
深さを忘れたコップの中に溜まっていく
「はねのない少女」や「尾のない少年」に代表される幻想的なモチーフと、無機質で都会的な舞台の組み合わせが共鳴し合っている。
この街に棲む影のない生き物や
光を拒むヒトの末裔は
もう既に別の世界へと旅立ってしまった
彼らの声は壁に刻まれた傷となって
未来まで届くのか
この引用箇所も好きだ。いまやもう、街にファンタジーが残されていない。けれど、街にはずっと雨が降っている。作品の要所要所で雨が描写されているのが印象的だった。その雨には音がなくて、霧のような雨だと思う。そしてこの街は、雨で濡れていなければ形を保っていられないような気がする。
・「光る犬」森本りん
飼い主はやや諦めた表情で
犬の後ろを散歩する
この表現が特に好きだ。ただ、引用して気づいたけれど、この引用はそれ単体というよりも、この詩全体のラストとしてこの二行があることが秀逸なのだと思う。犬と、それに影響されている人々を描き、最後に「やや諦めた表情」をしている飼い主を描く。そしてやはり、犬は人間よりも先にいるのだ。
では、この詩における「光る犬」とは一体なんなのだろうか。「反転し」て「表裏の覆った丘」から光りながら駆けてくる犬。犬によって、結果的に人は正気を取り戻す。そして、犬は「接続された新たな場所へ」いつまでも駆けてゆく。僕はこの詩を読んで、インターネットを連想した。多分、「反転」とか「接続」といった言葉が影響しているのだと思う。
仮にインターネットの話だとすると、この詩のラストは非常に示唆的だ。飼い主は犬を繋いでおくことができず、「やや諦めた表情で」犬についていくことしかできない。ここでの「光る犬」は技術そのものなのかもしれない。
・「黒子」藤田聡
正中線上に黒子がある人が好き
あの人が言ったのは
いつだっただろうか
空想の中にある理想だったのか
過去に出会った誰かだったのか
「あの人」の好みがとても具体的だ。僕はこれを読んで、不安な気持ちになった。少しだけこわくもなった。
「あの人」は、「私」が作中で語るように、ほとんどの人が自分の黒子の位置に無自覚だ。でも、「あの人」はしっかり見ている。もし、これが「空想の中にある理想だった」のなら、「あの人」はその人本人が自覚していない黒子に注目しながら、「この人は理想のひとではない」と思ったりするということなのだろうか。僕はそれが、なんだかこわい。でも、案外みんなそんな風に好き合ったり、すれ違っているような気もする。
「私」は「あの人」の言葉によって自分の黒子を意識するようになり、最後には「私」は自分黒子が正中線上にはないことを自覚する。その気づきは、寂しそうで切なげだ。ただ、第三者的な立ち位置から見ると、やっぱり不安になる。でも、これはとても魅力的な不安だ。
・「モノクローム」池田伊万里
たったひとり生き残ってからでないと
この手紙を書かなければならなかった人が誰なのか
わたしには分からない気がしている
最後のこの三行を読んで、静謐な気持ちになった。手紙を書いたのは、死に際の未来の自分なのではないかと思う。未来の自分はまだ他人だ。だから、この手紙の内容も本質的に他人事になってしまう。
仕事やお金や
友、恋人、家族
そのどれもが平凡なようでいて
ひとつひとつが穏やかな命の成り立ちである
言葉としては理解できる。けれど、やはり実感に乏しい。「わたし」も冷静な感じがするし、僕自身も理解から先にいけない。それがすごくもどかしい。「たったひとり生き残ってから」でないと、心の底からこの手紙が自分事になれないのかもしれない。そのどうしようものなさの前に、僕はぼんやりすることしかできなかった。
この手紙に差出人がないのは、きっと返信することができないからだ。
・「愛情の詩」林やは
散文詩である。最初に感想を書いた「卵焼き」も散文詩だけれど、対照的な作品だと思う。この詩の文章は過剰な読点によって途切れ途切れになっている。この作品もまた、散文詩でなくてはいけない。散文詩でこんなにも過剰に読点をふることで、その傷跡というか、いびつさが明確に可視化されることになる。
そのあと、きみが、なんとなくきすをするのも、その、えいえんなのだし、きみの部屋の内側から、ぼくたちの音がもれて、とびだしていく、ことを、ゆるしてほしいよ、ぼくだけ。
このように、過剰な読点だけなく、ひらがなの多さもまた特徴である。さらに、一文のなかで書き言葉が一瞬だけ話し言葉になり、また元に戻ったりもする。
このような文体は、作品にある種の軽みをもたらしていると言える。作品には「神様」や「宗教」、「死」といういった言葉がたびたび登場している(しかも漢字だ)けれど、「ぼく」はそれに対して手ごたえを感じていないような気がするのだ。これは決してこの作品を貶しているわけではない。むしろ、この軽みは作品の美しさだと思う。実際、僕はこの作品に共鳴する部分が大いにあるし、響き合える人はたくさんいると確信している。
きょうは、淡い、ということ、淡くて、しかし、これは死ではない、ということ、きみは神様にもなれる、と、いうこと。ぼくも、きみも、死なない、という、こと。
また、「ということ」のバリエーションによるリフレインや読点によって、作品に独特のリズムが生み出されている。
「ぼく」は何よりもまず語らなくてはいけないのではないか、と思った。ぽつぽつと、途切れ途切れであろうと、「ぼく」は語りたいのだ。そして、その先にはきっと、「きみ」がいるのだと思う。
このあたりで今号の感想は終えようと思う。6月号以降も気になる作品があるので、まずは刊行されている号に追いつくことを目指す。
また、これは私事であるが、7月中に私家版の詩集『あるわたしたち』を発行する。もうすぐ詳細をnoteに投稿する予定なので、気になる人はフォローしてくれると嬉しい。
※2020年7月6日、誤字脱字を修正
※2020年7月28日、見出し画像を変更