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阿修羅のごとく
父権が尊重され、性別役割分業意識が高い伝統的家父長制意識が、まだ色濃く残っていた1970年代。この時代背景があってこそ成立する「女の苦悩と戦い」が描かれた四姉妹家族の群像劇。1980年にNHKでドラマ化され、2003年にも映画化されている。
私は原作者の向田邦子の容姿の美しさに惹かれ、その人生に興味を持ち、彼女の作品にはそこそこ触れていたので、この2本の映像作品を観ていないわけはないのだが、すっかり内容は失念していた。今回のNetflixによる作品化は「是枝監督がなぜ今のタイミングでこのタイトルを制作したのか」という観点で、とても楽しみにしていた。
全7話のうち3話を観終えた。うん、素晴らしい。さすがNetflix、さすが是枝監督。ここで一息ついて、感想を述べたくなった。
原作発表とほぼ同時代にドラマ化された1980年のNHK版では、視聴者が持つ社会通念や道徳観念がドラマ世界と一致しているから「時代を描く意識」は必要ないだろう。だが、そこから50年近く経った現在、この作品をリメイクするにあたって最も強く意識しなければならないのは「時代」に違いなかった。この「時代を描く」ということに、強いこだわりが感じられた。実際にこの時代を生きた日本人にしかわからない当時の商品が随所に登場する。「バスボンシャンプー・クレンザーのサッサ・とんがりコーン・風と木の歌のコミックス」などなど、もうそんなところに興奮して気が散ってしまう。
映像処理も恐るべきこだわりが観られる。コントラストが強く、少し粗めに処理された映像のトーンはそれだけで時代を感じさせる。昨年公開されて、映画好きの間では大絶賛されていた(私にとっても昨年ベスト3に入る)「ホールドオーバーズ置いてけぼりのホリディ」(1970年代を描いたアメリカ映画)も同様に、映像処理で時代を表現するという技を使っていたが、この手法はこれからどんどん増えていきそうな予感がする。
私の解釈として向田邦子は決してフェミニストではない。性別で家庭内の役割が異なることを自然に受け入れているし、それを「男とは○○である」「女は○○でなければならな」という表現を使い、性別による性(さが)や宿命の違いを認めていた。今の時代であれば、どこかのお花畑の人たちから激しいバッシングを受けてしまう価値観かも知れない。私にとっては、今の時代がよっぽど異常にしか見えないのだが、この向田作品を通して、是枝監督が伝えたいことって、まさにそういうことなのかな? という気がしている。
どんな人気者でも何か一つでも非が見つかれば、ポリコレという悪魔から退場を突きつけられる、馬鹿げたキャンセルカルチャーの中で生きる私たちに、「大切な人の非を受け入れ、誰も退場させずに、幸せな人間関係を続けることの難しさに悩む」ことの素晴らしさ、美しさを是枝監督は伝えようとしてくれている、と私は勝手に解釈。明日、4話以降に臨む。