【ハーブ天然ものがたり】栴檀/おうち
古名 おうち・あふち
楝という文字、ふだんなかなか見ることはありません。
日本の色、淡い藤色をおうち色といって、楝、または樗という漢字があてられます。
楝の木は古名をおうち・あふちといい、木に咲く淡い藤色の花、アワフジから転訛したという説があります。
花の咲くころは、枝々に紫雲がかかっているように見えることから、雲見草とも呼ばれます。
花が終わってスズナリに成る実を金鈴子と呼び、干したものは腹痛のための生薬になります。
また樹皮を干したものは虫下しにつかわれてきました。
耐火性、耐塩性にすぐれ、成長もはやいので、沖縄では女の子が生まれると苗木を植えて嫁入り時の家具材にする風習もあったそうです。
小さな楝色の花は初夏に開花し、花の季節が短いことから、万葉集では亡くなった妻を想うきもちを詠んだり「あふち」を「逢う」にかけて詠む歌が残されています。
清少納言の枕草子では、5月5日(旧暦)には必ず咲いている花と呼ばれ、源氏物語には牛頭栴檀という名の植物が登場します。
楝の木は別名を栴檀/センダン。
学名は Melia azedarach (センダン科センダン属)です。
江戸時代まではおうち、あふちと呼称していましたが「大和本草(1709年)」で「和名をアフチという。近俗センダンという」と記載され、和の栴檀と漢字をあてて、センダンの名が定着しました。
そもそも栴檀は、飛鳥時代に日本に入ってきた南方産の香木の総称です。
白檀が栴檀と呼ばれる混同も、それが大きいと思います。
ヒマラヤ山麓原産とされ、日本では静岡以西に自生、公園や街路樹として植栽されています。
楝の木は、葉を含めて除虫、抗菌作用が強く、ぼっとん便所の蓋に使用されていた記録がのこっています。
厠には楝の葉が置いてあり、用を足したあとに葉をかぶせるように落とす風習もあったそうです。
楝の木は生活に密着した、馴染み深い木だったことがうかがえます。
祇園精舎の守護神 牛頭天王
楝の木が果たしてほんとうに牛頭栴檀かどうかはわかりませんし、むしろ楝に栴檀と当て字したことを「唐変木」呼ばわりする意見もあって、なにがほんとうかわからない、フシギ歴史の樹木です。
牛頭栴檀は仏典などに登場する神懸った樹木の名称です。
香木として日本に入ってきたときは赤、黒、白、紫の栴檀があるとされていました。
そのなかでも南インドの摩羅耶山のものが最上とされ、牛頭栴檀と呼ばれました。
マラヤ山の別名は牛頭山です。
日本には古く、牛頭天王をお祀りしていた社がいくつもありました。
牛頭天王信仰といえば京都祇園の八坂神社が有名です。
祇園精舎の守護神なので、牛頭天王を祭った場所は祇園と呼ばれることが多いそうです。
1868年に発令された神仏判然令では名指しで、「権現」「牛頭天王」の神号を用いる寺社は、名前を改めるよう布告され、現代ではスサノオ神と習合されています。
ということは出雲系であることはまちがいなく、日本全国に分社がある八坂神社をはじめとして、八雲神社や、八剣神社、八重垣神社、熊野神社、津島神社(津島牛頭天王社)、氷川神社、須賀神社、出雲系タケミナカタノミコトを祀る諏訪神社。さらには菅原道真公(も出雲の系譜だったと記憶しています)の天満宮と、江戸時代までは日本全国津々浦々で牛頭天王は信仰されていたと思われます。
牛頭天王は薬師如来を本地仏とした疫病を防ぐ神でもあり、山伏が修行するときには薬草に知悉することが必須だったので、修験道者の信仰にもつながっていたそうです。
平家とのつながり
祇園精舎は平家物語の書き出し「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」で、日本に広まったように思います。
学生時代、不勉強だったのがバレバレですが、わたしは栴檀のことを知る前は、日本のどこか、平家ゆかりのお社に祇園精舎というものがあるのだろうと思っていました。
(以下説明は釈迦に説法と思われますが)
祇園精舎はインドにあり、釈迦在世のころ建造された5つの寺院のひとつです。
精舎は出家修行者の住まいであり寺のことで、祇園は身寄りのないものや貧しいものを受け入れるという意味があるそうです。
いまは歴史公園に指定され、釈迦が説法を行った聖地となっています。
平家物語では、壇ノ浦の戦いで敗れた平宗盛と平清宗の父子が、京都三条河原で生首をかけられたとして楝の木が登場します。
それから江戸時代まで、罪人の首を架ける木として使用され、首をさらす台材は楝の木として定着したそうです。
虫がわきにくいという理由もあったと思いますが、楝の木がかもしだす風情は、おどろおどろしいものではありません。
淡い紫は浄化と癒しの色ですし、人々に愛され、重用されてきた樹木であることは確かです。
首掛けの木として、楝の木が忌み嫌われた時代もあったようですが
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」の日本らしい精神で
浄化と癒しの効果が高い楝の木を選んだ、という思いがあったのかもしれません。
丑だけいない十二支考
おうち色の花を、いまわの際に見ていたという南方熊楠(みなかたくまぐす 1867 - 1941年)。
南方熊楠のエピソードはココロ躍る冒険譚。
幼少期のニックネームは「天狗ちゃん」。
20歳でアメリカに渡り、その後ロンドン大英博物館で研究を進め、多くの論文を発表して、世界に名を知られつつ生涯を在野で過ごしました。
奇抜な思想と言動で、奇人との評判も高いです。
ネットで検索すると痛快極まりないエピソードが散見しています。
スサノオ・エッセンスの配合比率がとても高い人だったのかな、だから暑がりでいつも裸ん坊でいたのも、クンダリニから上昇するエネルギーのパイプが太くて振動数が高かったせいでは、と勝手に妄想しています。
ロンドンから日本に戻った熊楠は神社合祀反対運動にも力を入れ、伐採を免れた神社林は何ヵ所かあるそうですが、このとき損なわれた社殿や森、社叢、原生林はかなりの数にのぼるそうです。
釈迦がインドに生まれる前の前世物語(ジャータカ)のひとつ、捨身飼虎は、飢えのあまり七頭の子虎をいまにも食べようかという母虎をみて「何千回と生まれ変わっても、私の身は腐り朽ちゆくもの、肉体は変わり続け、なにを求めても満たしがたく、保ち難いものです。飢えている虎の親子を救ってあげよう」といって虎に自分を食べさせるおはなしです。
捨身飼虎のお話は、南方熊楠の十二支考「虎(五)仏教譚」に綴られています。
釈迦の前世、ある国の王子だった時のおはなし。
王族でありながら自らの身を売ってお金は貧しい民に施し、他国の使用人として働いていたとき、たまたま薪をとりにいった山で牛頭栴檀を見つけます。
その国の病気の王様が霊薬である牛頭栴檀を求めていたこともあって献上し、王様は全快します。
国を半分あげるという王の申し出を断り、50日間貧民に施しを与えるようお願いして王様はその通りにします。
王様はさらに金銭をたっぷり持たせて、青年を自国に帰らせます。
父王と母は喜びますが、やはり青年はすべてを投げうって、山に入り仙人修行を始めたときに、飢えた虎に出会う、と綴られています。
摩羅耶山の栴檀は神懸った霊薬として登場しています。
楝の木が牛頭栴檀かどうかはともかく、今生いよいよ尽きるというそのときに、楝の花がお迎えにきた南方熊楠のことを思うと、やはり楝の木は牛頭栴檀のエッセンスを受け継いだ樹木で、スサノオと牛頭天王クラスターのきざはしとなっているのかな、と妄想は続きます。
南方熊楠の「十二支考」に丑(うし)のお話だけ収載されていないのがとても残念。
知の巨人の牛頭天王、そして牛頭栴檀についての見解を読んでみたかったです。
☆☆☆
お読みくださりありがとうございました。
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