【エッセイ】noteを書いているとき、書き終えたとき、noteを書けていないとき。#noteの書き方
noteを書き始めたとき、そこには「書いてみたい」の動機だけがあって、何か特別な期待も打算もなく、ただひたすらに一所懸命に書いていた。
何を書いていいのかわからなかったので、過去の経験をもとにプロフィール記事と有料記事を書いてみたら、途端に有料記事が5本も売れて、とても驚いたし、もちろん嬉しかった。
何日も何日もかけて調べ上げた渾身の記事を投稿しても、スキもコメントもつかなかったのは少しガッカリしたけれど、そんなことよりも自分自身が納得のいく記事を投稿できたことの方が、よっぽどに達成感・充実感・満足感、つまり “やりがい” を感じることができた(※この時の記事はいずれ拡散されることになり「しちゃおじ」の代名詞的な記事となる)。
もともと文才に恵まれているわけでも、語彙力に長けているわけでもないので、できることは手抜きや妥協をせずに、心の奥底に散らばる言葉の欠片を拾い集めて、独自の表現でひとつの作品として仕上げきること。
noteを書いているときは耳栓をしているときが多く、夜間だと部屋も敢えて薄暗くしている。
人間は視覚と聴覚からの刺激に強い影響を受けるので、目と耳から入力されてくる情報が少なければ少ないほどに、「今・ここ・私」が求めている真実の言葉にアクセスし易く、深夜から早朝にかけてなど、人々の活動が休止している時間帯ほど深遠に迫っていくことができる。
日常の雑多な思考・感情を静めていくと、てんでばらばらに散らばっていた言葉の欠片が輪郭を帯びて浮かび上がってくるので、その一片一片を拾い上げて、丁寧に丁寧に並べていく。
正直なところ、noteを書いているときは、創作の苦しみの渦中でもある。
無駄に時間だけが過ぎていく感覚に襲われて、『こんなことをしていて何になる? 他にやるべきことがあるのではないか?』と、いっそ投げ出してしまいたくなるときもある。
記事を書き終えて [ 投稿する ] を押したとき、重荷を下ろしたような安堵感に包まれる。
創作の苦しみが、達成感・充実感・満足感の喜びに転化する瞬間であり、このような心境になれると、最早スキがつかないとか、コメントがつかないとか、第三者の反応や評価など気にならなくなる(※なぜなら書き終えた記事の価値を最も理解しているのは間違いなく自分自身だから)。
長文になろうが、短文であろうが、なんなら先日に画像で投稿した{元旦の雪化粧}のたった2行のキャプション(73文字)であっても、創作の苦しみと喜びが変わるようなことはない。
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日常に追われてnoteを書けていないときは、果てのない大海原の真ん中で、帆のないイカダで漂流して途方にくれているような、波風に流されるままの無力な存在へと成り下がる。
置かれた現実に閉じ込められて、懸命に脱出を図ろうとも、どこにも出口が見つからない。
ごく最近になって、noteを書くことは人生という航海の羅針盤であり、自らの置かれた現実を打破するための鍵なのかも知れない、と直感するようになった。
理屈ではなく、noteと向き合っているときに度々訪れる心の平安が、そう確信させる。
記事を書き終えて [ 投稿する ] を押すと、漂流生活の彼方に緑の眩しい孤島が見えた気がするし、noteからしばらく離れていると、見えた気がしていた孤島が幻覚のように雲散してしまう。
少し前に「なぜ、私は書くのか」といった賛否両論を呼んだ「藤原華|編集者」さん主催の私設コンテンストがあった。
当時はお題やコンテストというものに無関心だったけれど、もし参加をしていたとしたら、ここに書いたようなことをつらつらと綴り、「運命であり宿命だから書く」と結論していたと思う。
ドンピシャのタイミングで「だっく@ニュース評論ホリック」さんが、「文章を書くことの本質は祝福であり、呪いでもある」の記事を書いてくれましたが、結論としては同義です。
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最後に、ここを読まれている皆さんへ。
賛否両論があって、ほとぼりも冷めて、一周回って自問自答して辿り着いた「なぜ、私は書くのか」のあなただけの結論を、ぜひ一行コメントで教えていただけたら嬉しいです。
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以上 –【エッセイ】noteを書いているとき、書き終えたとき、noteを書けていないとき。#noteの書き方 – でした。
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