190413_コミュニケーションは「弱み」から生まれる_11日目
昨日のnoteを書いたあと、今日も「弱み」について考えていました。
▼昨日のnote
ぼくは毎週末、一人でお風呂に浸かりながら、ぶつぶつ言いながら考える時間(風呂トークと読んでいます)を取っているのですが、今日その時間に「弱み」について考えたことを整理してみました。
「弱み」を自覚していないとどうなるか。
「弱みの自覚」というのは言い換えれば恐怖感、危機感、焦燥感を覚えることです。もしこれがなかったらどうなるか。
簡単に言えば、「飛んで火に入る夏の虫」になってしまいます。
虫もたぶん今後数千年経ったら、明るいけど熱いものに凸しなくなるかもしれません。しかし大半の虫は熱さを顧みず突っ込んでいってしまいます。
ところが人間は、おそらく同じようなシチュエーションに遭遇した場合、被害を負った誰かが社会に対して「危ないから火に近づきすぎちゃダメだよ!」と伝える可能性が高い。
その結果、社会全体がその危険性を学習して「共同体のリスク」と認定し、その被害に遭う確率が下がります。
直接的に同じ現象だけでなく、似ていると判断されるものに遭遇しそうになった場合、「弱みの自覚」が作動して、被害を最小限に抑えます。
なぜ「ペン」は「剣」よりも強いのか。
これは福沢諭吉先生が言ったとか言わないとかの、歴史上の箴言です。なぜそう言えるのか、「弱み」を起点に考えてみます。
人間は上記のとおり、「弱み」を共有する生き物だと考えられます。その作用は、お互いが「協力」することで種を長らえることができてきた、人間のDNAにプログラミングされているのではと、すこしロマンティックにぼくは考えています。
その観点に立つと、「ペン」は誰かに協力を仰いだり、共同体にリスクを伝えることができるが、「剣」は誰かを傷つけることしかできない。究極的に人間は他者との協力のもとでしか生きていけないので、「剣」しか持たない人間は生命を維持していけない。
仮に「ペン」しか持たない敵対する人間を「剣」によって傷つけることができても、「弱み」によってつながっている共同体から「傷つける」という行為そのものを「共同体のリスク」として認定されるため、少なくとも社会的には「抹殺」されることになる。
コミュニケーションという意味でも「ペン」のほうが圧倒的に強かったり、「ペン」が「剣」よりも強いことを証明する上で引き合いに出せる例は枚挙に暇がないけれども、少なくとも「弱み」という点においても「ペン」は「剣」より強いといえる。
コミュニケーションは結局「弱み」から生まれている。
そもそも、もし人間が「強み」しかないとしたら、コミュニケーションは必要なのだろうか。誰の力も必要じゃないなら、「コミュニケーション」は必要ないはず。
そう考えると、赤ん坊の産声こそ人間のコミュニケーションの端緒にして本質だなあ。
ただ、「弱み」は最低限の「生存」の話であり、社会が発展していく上ではまた別の観点が必要な気もする…そうか、だから最低限の「生存」「安全保障」っていう観点の上で「強み」が成立するから、その基盤を強いものとする上で、「弱みの自覚」が必要だよねっていう話なのか、と勝手に合点がいった。マズローの欲求階層説も単に5段階をだいたい知ってるだけじゃなくて、その中身もくわしく勉強してみようかな。