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十六茶は「人が淹れてくれたお茶」なのか

  綾鷹という、ペットボトルのお茶がある。あのテレビCMに、老舗の女将や何代目かが出てきて誉めそやしているのを見た時は、世も末だと思ったものだ。しかし、最近流れ始めた十六茶のCMを観た時には、本当に驚いた。
 
 「人が淹れてくれたお茶は美味しいね」と言うのである。それはまぁ確かに、誰か(あるいはロボット)が工場で作ってくれたものだが、これが「人が淹れてくれたお茶」と言えるのか。あるいはペットボトルのお茶を、人がコップに入れてくれたという意味なのか。
 
 綾鷹といい十六茶といい、言っていることが滅茶苦茶である。本物ではないのに本物の振りをしている。今は本物のように見える偽物の時代なのだ。
 
 安倍首相も外交などしていないのに、している振りをしているだけ。それをマスコミが容認して、さも本物であるかのように宣伝している。
 
 今や、多くの人がお茶も淹れない時代になった。もちろんペットボトルのお茶も便利だし、それで女性のお茶汲みがなくなった面もある。しかし、その分プラスチックゴミは増える一方だし、お茶も淹れられない人間が増えた。
 
 茶葉を選ぶことから始めて、毎回お湯の温度を考え、人数分の量と濃さを考えてお茶を淹れるという、高度な知的作業が出来なくなってしまったのである。
 
 そう、お茶を淹れるというのは非常に高度な知的作業なのだ。高齢者が繰り返しこれを行なえば、日常生活の中で自然に出来る認知症予防にもなる。
 
 しかし今、何も考えずにボタンを押すだけで、いつでも「全く失敗のない最高のお茶」が飲める器具を、家庭に普及させようとしている。
 
 そしてお茶を淹れるという知的作業と共に、急須が消えていくわけだ。生活文化を支えてきた諸々の関係品が、一緒に消えていくのである。
 
 そうして、時間と手間を省いて浮いた時間で何をするかというと、スマホを見るだけ。高齢者も「スマホ、スマホ」の時代だ。便利で時短になる技術や商品が増えれば増えるほど、生活文化が痩せ細っていく。
 
 風情が失われるという次元の問題ではなく、人間生活の重要な要素であった文化が消えていくののである。その結果、自力で出来たことがどんどん出来なくなっていく。
 
 前頭葉ばかり使い、脳ばかりが過剰に刺激を受けて、手が思うように使えないようになれば、人間はAIに駆逐されるだけだ。
 
 お茶の味も単調になって舌も単調になり、考えることも単調になるだろう。もうなっているか。生活文化は、生活を支える大切な知的要素なのに。
 
 大正デモクラシーを在野から支えた長谷川如是閑は、かつて存在した煮豆売りの仕事ぶりをこう書いている。
 
 彼らは豆を選んで絶妙な具合に煮上げて、それを買った人間が口に入れた時に最高に美味しい状態になるよう、細心の注意を払って煮豆を作って売りにくるのである。そういう知性の在り方を、長谷川如是閑は

 「本物を見る目を持った人間の例」
 
 としている。こういう生活文化が痩せ細ってきたこと、それに危機感を抱かないことが、社会全体に嘘やまやかしを蔓延させているような気がしてならない。

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