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#4 フォルケホイスコーレの手法で、しあわせの本質を探る

「 今ここで、しあわせを繋ぐ意味がある」〜 しあわせ探求庁です!

しあわせは何でできていて、どんな姿をしているのでしょうか? 私たち「しあわせ探求庁」は、デンマーク🇩🇰発祥の「対話」をもとにした手法を用いて「しあわせの地図」を描いていきます。
 メンバー2人が対話し、その記録を元にした記事を毎週水曜日に投稿、はじめの部分は2人によるトークでお届けします。下のボックスの右下にある再生ボタンを押して、放送をお聞きいただけると光栄です✨


〜 以下の記事は、上の stand.fm 放送の続きです 〜

フォルケホイスコーレってどんなとこ?


しあわせを探求するプロジェクトである「しあわせ探求庁」ですが、僕たちがここで行う対話はフォルケホイスコーレの手法を基にやっていこうということになったんですよね。そもそも、フォルケホイスコーレってなんですか?

フォルケホイスコーレはデンマーク独自の教育機関で通称「成人の学校」といわれる全寮制の学校なんです。入学にあたって制限があるのは「17歳半以上であるかどうか」それだけです。ただこのフォルケホイスコーレってなんなのって聞かれても本当にうまく説明できないんですよね。日本にはない、かなりユニークなシステムだと思います。

「成人の学校」ですか、おもしろいですね。内容も気になりますが、形態としては全寮制なんですね。ということは食費や家賃、そして授業料も一緒になっているということですよね。それで大体費用はどのくらいなんですか?

私が行った2022年秋タームは食費や家賃、授業料も全部含めて1ヶ月15〜20万円くらいでした。デンマークでアパートの一部屋借りるだけでも月10万円が相場なので、かなり格安だと思います。
 なぜそれだけ安いかと言うと、デンマークの国が認めている教育制度なので70%ほどは国が負担してくれます。そこに予算を充てるところがさすがじゃないですか?フォルケホイスコーレについて詳しく書かれたサイトがあるので、ぜひ覗いてみてください。

本当の民主主義ってなんだろう。


デンマーク国内には約70のフォルケホイスコーレがあります。それぞれの学校の特色は違いますが、共通していることは、民主主義的価値観を育むことを目的としていることだと思います。試験もなければ卒業して何か資格を得られる訳でもない。ただ、自分を見つめ直す場所としてもデンマークだけでなく日本でも最近、知名度は上がっている気がしますね。

確かに。note でもフォルケホイスコーレについての記事をよく見かけます。日本人にとっての需要や注目度も上がってきている気がしますね。ところで僕の中では、民主主義っていうのはどうもピンとこないんですが、デンマークやフォルケホイスコーレでいう民主主義って何をもって民主主義って言うんですか?

ん〜、難しいですが、フォルケホイスコーレにいるときにデンマークらしい民主主義だなと感じたのは、「多数決で決めない」ところですかね。少数派の意見だって、誰かが持つ一意見としてしっかり織り交ぜて検討されるんです。

それってすごいことですね。日本はその逆で、小学校の時から多数決で決めますよね。多数決で多くの人が賛成するのがいいっていうのが民主主義だって教えられている気がします。でも「多数決」って言い換えれば、「マイノリティを無視するっていうこと」ですもんね。
 日本で刷り込まれた民主主義の定義と、デンマークの民主主義はなんだか違う気がします。ただ、絶対王政と民主主義を比較すると、国民の手の数で決める多数決っていうものはきちんと民主主義だったんでしょうね。

日本で民主主義と考えられているような「多数決」の方が圧倒的に楽ですもんね。やはり多数決ではなく、少数派意見も考慮するにはお互いに妥協が必要になりますし、その分話し合いに時間はかかる。
 デンマークは「社会的弱者を含む全ての国民がこの国に生まれてよかったと思える国作り」を目指していると、国際協同組合研究年次報告書で知りました。一見マイノリティである社会的弱者の立場を本当に考慮していることが、マジョリティの意見だけで決定しないという軸から感じられますね。マイノリティの意見だったとしても、その言葉の背景にある理由や想いを時間を取って話し合うということがすごく重要な部分になってくると思います。

それを言うと日本でも、社会的弱者を含めて全ての人が同じ権利があることになってますよね。ただ、日本では欧米のように平等さが感じられない結果として、権利の平等と結果の平等に差があると思います。
 以前、日本が大好きなイタリア人の友人に「日本って民主主義の国なの?民主主義には見えないよ」って言われたことがあります。なぜかと尋ねると、「朝の満員電車で見る日本人の服装はもちろん、顔すらも同じように見える。個性が見えない。結果が伴って初めて権利として働くはずのものが、日本では権利として与えられていても、結果が伴っていないということが生じている。」と言っていました。
 日本人は自分の意見を言わないという現実が起きていて、発言の権利があるはずなのに、言うと煙たがられるからなどの理由で権利が意味をなさないんですよね。

なるほど、おもしろいですね。権利では保証されているのにそれを上手く使えていないのは、日本の独特な文化によるものな気がします。
 よく聞く話ではありますが、例えは会社での有給や育休も会社員は取る権利があるにも関わらず、周りに気を遣ったり、無言の圧力を感じて結局取っていないっていうのも日本らしさの表れだと思います。

欧米では、採用されるかは別として、とりあえず意見を言っておく。一方で日本では、言う権利はあるけれど実際に意見を言うところまでは行っていない。これが大きな違いなんだと思います。
 ただ、結果を求めすぎたあまり、1970年代のアメリカで起きたのがアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)ですよね。黒人差別を解決するために大学などで黒人枠と白人枠を作ったことで、黒人がかなり有利な状況になり、結局逆差別になってしまったという件もありますね。

結果を求めすぎて強制的に分けてしまうと逆効果になることがあるんですね。その点で言うとフォルケホイスコーレでの対話は、自由さがあり、自然に結果が生まれるような雰囲気でした。意見することは強制ではないんです。言いたい人は言いやすい、言いたくない人は言わなくていいという雰囲気が創り上げられているんだと思います。

本当の民主主義は、全員に意見を言わせることじゃなくて、言いたくない人は黙っていてもいいけれど、言いたい人はちゃんと言える環境なのかもしれないですね。日本は意見があっても意見を言わないけど、アメリカなどでは意見がないとダメだと判断される文化がある。それも違いますよね。

そうですね。フォルケホイスコーレで実際にやっていた授業で、まさに本当の民主主義を創っていくんだろうなと思った出来事があって。
 月曜の1限目のクラスでは先生が一人ひとりに、「週末はどうだった?」と声をかけるんです。10人前後いるクラスなので、そこからずっとおしゃべりして90分の一コマがそれで終わってしまうなんてこともありました(笑)それだけ時間をかけ、全体に聞くのではなく、一人ひとりに問いかける先生のやり方は意識的に行っているんだろうなと感じましたね。
 自分も喋りたいように喋るし、その分、他の人が喋っている時間もきちんと聞く、それが皆にとって対話のためのいい姿勢を創っていくんだと思います。

対話について考える。

どんな時も真っ向から


なんだかフォルケホイスコーレでの時間がとても素敵なものなんだろうなと感じます。あと、僕がよく外国籍の方と話す時に感じることがNGな話題についてです。
 政治や戦争、宗教に関わる話は、出身国によってイメージが異なるのでそれがきっかけで大げんかしたこともありますが、僕が考える対話の条件はNGを作らないことです。もちろん相手に確認した上でですが、僕はどんな話題でも真正面から話すようにしています。
 フォルケホイスコーレでは、こういう話はしないでね、こういう話はしないでおこうみたいなことはありましたか?

ん〜、特にそういったことはなかったですね。ただやはり、デンマークにもタブーとされる話題はあるんだろうと思います。
 例えば、フォルケホイスコーレの授業中、ある1人の先生が、普段なら話しにくい自身の精神病についての話を全生徒にした時がありました。それは先生なりの「僕のようになんでも話していい場所なんだよ」と言うメッセージだったんだと思います。それは透さんの考えに似たもののように感じますね。フォルケホイスコーレでの体験談を私の note に書いてあるので是非読んでいただきたいです。

ただ私は、透さんがおっしゃるような「タブーのない対話」が一概に良いとは言えないと思います。
 先生が例外にも精神病について話したもう1つの理由に、生徒との信頼関係を築く目的もあったんだと思います。デンマークでは各々が感じる心地のいい状態のことを「HYGGE」と言い、その文化をすごく大切にして、みんな意識的に HYGGE しているんですが、その「心地いいこと」が対話でもすごく大切だと思うんですよね。タブーがあってもなくても、心地いい対話はその人たちの間にある信頼関係に大きく左右されるものだと思います。

なるほど。僕の性格としては、人との距離感をゆっくりと縮めるというよりは、一気に縮めるタイプだからかもしれません。ただ、自分が言うタブーと人に尋ねるタブーはまた違いますもんね。そこの使い分けは重要かと思います。

正解を求めず、フラットな関係性で


私がフォルケホイスコーレで印象的だった対話法は「正解を導き出さない」というところでした。授業では2人1組やグループになって意見を出し合うという時間が多くありましたが、沢山話してやっとみんなの前で発表しても、先生は意見を1つに絞ろうともしないし、全グループが発表するだけして終わりなんです。
 日本の義務教育では常に正解を教えられてきた私にとって、かなりむず痒く感じることもありましたが、これが対話なんだって思いました。私と透さんとの間にも誰かとの間にも、意見の違いは必ずある。どちらか一方が正解だなんて決めつけるべきではないと思います。しあわせ探求庁でも大切にしていきたい考え方だと思います。

そう考えると僕は、対話って本当に難しいなと思います。僕が生きてきた世界では、ビジネスなどでも常に議論を重ねたり、より説得力のある結論で相手を打ち負かすことをしてきたからだと思います。議論には慣れているけれど、議論と対話は全く違うので、僕にはまだまだ対話ができるようになるにはトレーニングが必要ですね。結論や答えがない話はどこかモヤモヤしてしまうんですが、それはモヤモヤじゃなくてそれが自然なことだと思えるようになれれば良いなと思います。

そうなんですね。ただ、透さんからは違う意見を受け入れる姿勢というか、これだけ年齢差や経験値の違いがあってもフラットに意見を言い合える環境を作ってくれていると感じます。人としてのフラットさは、対話において非常に重要な要素だと思います。
 私は結構日本人らしい?性格で、初対面の人の学歴や役職を聞いた途端、自分らしさを出せるか出せないか左右されることがあります。肩書きでその人が凄いみたいな空気を敏感に察知してしまってフラットな関係で話せなくなるのが勿体ないところです。

フラットな関係に関して言えば、僕が英語教師をしていたとき、まさに生徒ともフラットな関係を築きたいと思って努めていたんです。ただ実際はその歩み寄りが生徒からは不評で、「先生なんだから、こうしなさいって言って欲しい」「生徒の意見を聞こうとしないで」って言われたこともあるんです。

え〜!それは衝撃です、、。でも確かに、指示された方が楽なんでしょうね。幼稚園から高校までずっと、大人の言われたままにやってきたっていうのがあるから。言われた通りにやることで、責任を持たなくて済む。
 自分の意見は言わないけど、人にああしなさいって言われて不満を言うだけで他責で生きていくみたいな状態、それって幸せなのかなって思います。思ったことを発言する、その責任も同時に持つことが大事な気がします。

使用言語と伝え方


あと、対話は共通言語も鍵だと思います。僕がコミュニケーションをする際に大切だと思うことは「内容がきちんと伝えられているかどうか」なんです。日本のように「こう言う風に言ったらよくないんじゃないか」と考えるよりも、中身を伝えることが最優先。その点フォルケホイスコーレではデンマーク人やインターナショナル生にとって共通言語である英語は第二言語であり、気遣いをする暇もなく内容をとにかく伝えようとするからストレスが少ないんじゃないですかね。

おもしろい考え方ですね。英語という言語自体親近感が感じられやすい上に、お互いが母国語じゃない言語を使うことで気を遣わなくて済むことは多いとは思います。ただ一方で、フォルケホイスコーレで実際に感じたのは、デンマーク人が習ってきた英語と日本で習う英語に違いがあるんですよね。
 ある1つの単語がデンマークではこういうニュアンスとして使うけれど、日本では違うニュアンスで教えられていて。それによって勘違いが生まれたり、文化の違いだと判断してしまうってことに繋がる可能性があることをすごく感じました。

確かにそれは大いにあると思いますね。例えば日本語でも「〜します」と「〜してあげます」では文法的に間違ってなくてもニュアンスによってかなり印象が変わりますもんね。
 しあわせ探求庁では対話という手法でプロジェクトを進めていきますが、答えを出さない、何が正しいかを結論付けないってすごく不思議な感じがします。

そうですね。特に私たちは日本で生まれ育っているので馴染みはないかもしれません。しあわせについて考えるしあわせ探求庁では、内容に関わらずそれらの取り扱い方から、しあわせに繋がる手法である対話を楽しみたいですね!

「 今ここで、しあわせを繋ぐ意味がある」〜 しあわせ探求庁でした🍩
 また来週水曜日にお会いしましょう!
(2024年5月8日)

しあわせ探求庁|Shiawase Agency
  
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  (miori @しあわせの探究
オランダ支部:佐々木 透
  (ささきとおる🇳🇱50歳からの海外博士挑戦
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