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水中で息をする練習/永井玲衣『水中の哲学者たち』


わからないことって、じっさい、恥ずかしい。


例えばこういうとき

「ジム・ジャームッシュ監督の映画が好きなんです」と僕は言った。
「ふむふむ」映画好きの人がにやりと呟いた。
「ジャームッシュの中でも、結局最新作の『デッド・ドント・ダイ』が傑作ですよね。あれは革命的だった。わかるなー」
僕はやばい、見てない。と思った。しかし、
「ですよねー」と僕は言った。

みたいな。
ジャームッシュが好きと言った手前、見栄もあり最新作を見ていないとは言えなかったり。
「すみません、それは見てないんですよね〜、でもおすすめだったらまた今度見ますね。」
みたいなことを言えばいい(そしてコミュニケーションもそっちのほうが円滑に進む)、と頭ではわかっているのに、脊髄反射的に「ですよねー」と言ってしまうのだ。なんでだろう、僕だけかな。(ちなみに僕は「ナイト・オン・ザ・プラネット」と「パターソン」が好き。)

まあ、それは自分が恥をかけばいいだけだけど、そうはいかないシーンもある。例えば、他者のことを大切にしたいときとか。そんなことはいつだってそうあるべきだけど、満員電車に乗っているときに、他者のことを大切な存在として認識することはむずかしい。
ただ、相手の話をよく聞きたいときはある。そして、それが上手にできないで後悔するときもある。
そういうときに、人の話をちゃんと聞くってむずかしいのだ、ということを知る。何度も、あたかもその事実に初めて行き当たったかのように。
人生の要所要所で、素直であれたらと、何度思ったことか、もう戻れないのに。

それはどうしてむずかしいんだろう?と考えたときに、やはり、「わからないことが恥ずかしい→わからない、ということが怖い」的な思考が一つあるんだと思う。
そしてその、自分の余裕のなさが、相手の話が自分の世界に存在することのできる余白を逼迫してしまうのかもしれない。自分の余裕がないと、相手の話をすることだと都合のいいように聞いてしまったりするから。
何かを主張するということは、往々にして相手の話を聞く余地がないということではないかと、時折思う。譲れない一線を引くということは、その線の内側には相手の意見の入る余地がないということだから。
それほど他者のことがわからないことは時としてとても怖い、近くにいればいるほど。同じくらい、他者のことを損ねることが怖いとしても。

そう、人の話を聞くって本当にむずかしい。そんなことばっかりだ。

でも、実は、それはとてもむずかしいことだけど、普段から少しずつ練習すればうまくいくこともあるんじゃないか。何事にもコツというものがあるはずだから。

と、思ったきっかけが、永井玲衣の『水中の哲学者たち』という本です。


わからないことを「わからない」と言い、むずかしいことを「むずかしい」という哲学書。
全然哲学書って感じではなく、面白いエッセイといった感じなのだけど、こう書くとたしかに哲学書な気もしてくるような。
ちなみに、Audibleでは作家本人の朗読を聴くことができます。

この本は人と人が話すことがむずかしいということを、実況中継のように、その時そこで起きていることについて思いを馳せたりしながら、言葉というものの不確かさを確認した上で、その言葉の手触りと、不確かな言葉で触れる世界の形、人と人のあいだにあるものについてじっと観察するように描いている。
と、何かを語ることについての怯えに目配せしつつ、丁寧に磨かれた言葉の美しさを説くこの本を読んだあとで、「こういう本です!」みたいに言い切ってしまうことも怖いと思いつつ、むずかしい。
むずかしいことをむずかしいと言うことも、むずかしい。し、それを人に読んでもらうことはもっとむずかしい……と考えていくと、やっぱりむずかしい。

そうしたむずかしいこと、他者と一緒に何かを深く考えることを、みんなで水の中に潜っている、と永井玲衣は言う。
(ちなみに、永井玲衣さんって、永井玲衣ってフルネームで呼びたくなるような名前してませんか?大泉洋みたいな。そういう人ってたまにいるよね。)

むずかしい、ということを突き詰めていくと、「やっぱり、どこまで行っても考えなんて人それぞれなんだから、共通する答えなんてないよね」みたいなことを思ったりもする。水の中では息がしづらいから。そう言ってしまったほうが楽なこともある。

けど、そんなこともない。

その場ではわからなくても、水の中に沈んだような問いは、いつかのどこかで何かに接続するのだ。

その一つの答え、のようなものがこの本ではこう書かれている。

 ふと我に返ると、隣の部屋に母がいる気がした。ぼんやりした頭で扉を開けると、汚い食器がそのままの、狭い6畳の部屋がある。母はいない。なつかしさだけが魂に沈んでいる。
 陽はすっかり傾いて、青みがかった空気が部屋いっぱいに充満している。
 まるで水中のようだ。

 なんて美しいんだ、とわたしは言った。

永井玲衣『水中の哲学者たち』、p23、晶文社、13刷 2023年11月10日

なるほど。わからないことを、わからないものと知ったまま、そこに存在させ続けることが、いつかの美しい情景に繋がっていたりするのだ。
それは、わかる気がする。
「気がする」ってとても大切なことだと思う。

わからないことをわからないと素直に言えたなら、他者の意見が「わからないもの」として、自分の認識を歪めようとすることなく、相手の言葉、存在をそのまま自分の世界に存在することができるかもしれない。
そうして相手の言葉と存在を自分の世界に沈めておけば、そのときわからなくても、いつか、思っていたことは違う形で浮かび上がってきて「わかる」日が来るかもしれないから、対話を続けていれば、きっと。それって素敵なことで、いいなーと思う。自分の普段遣いの会話が素敵だと思えたら、そんなに贅沢なことはない気がする。
主張しながら、その主張ごと、相手の存在の不確かな揺れ動きとともに変わっていけたら、主張と融和が両立できるのではないか。台風のように切羽詰まった状況でも一緒に息がしやすくなる目が、そこにはあるのかもしれない。

君のことをわかりたい、僕のことをわかってほしい、というより、お互いのことがわからないということを、一緒にわかりたい。みたいな。
背伸びしないで、等身大の言葉で。
こんな風に人と話せたらいいなと、本を読んでいて心から思った。相手の存在を、わからないということごとすべて、受け入れるように対話ができたら。それって他者を尊重して、心地よく一緒にいられるためのコツみたいなものなのではないだろうか。


「夜ふかしの読み明かし」という永井玲衣たちがやっているポッドキャストがあって、その中で哲学対話をしようという回があり、
その回の冒頭で永井玲衣が説明するルールが3つある。それは、

・よく聞く
・偉い人の言葉を使わない(自分の言葉で話そう)
・どうせ人それぞれじゃん、で終わらせない

とのこと。

(この回が好き)

わからないことをわからないとした上で、「あなたはどうわからないの?」ということを尊重しながらしていく会話は楽しい。「ぬいぐるみがかわいいってどういうこと?」ってたしかに、「こういうこと!」とは言えないけど、話を聞いてるとなんとなく、「こういうことかな?」みたいなものは伝わってきたり、話せたりする。
そういう対話の楽しさに触れるとき、むずかしいことも練習してみたいと思う。少しずつ。

それは小説を読むことにも少し似ている気がする。
長い話って、短くまとめたらそこからこぼれてしまうことがたくさんあるから長いのだ。だから何度も読んで、そしてたまに人と話したら全然違う読みがあることを知って、楽しかったりする。
普段はわかりやすい60秒の動画しか見ないくせに、小説になると、すんなりと読めない語りのほうが面白いとか言ったりする。(もちろん「かまし」も多分に含まれているが。そして、安易に行替えしなかったり、文法が複雑な語りのほうが「わかりやすい」とか言い出したりする。)


「わからないこと」を確かめ合うように、小説を読むように話すことができたら、それは他者と一緒にいるうえで、傷つけたり何かを損なったりすることがなくなればいいのもそうだけど、とても楽しいことがたくさんあるのではないか。明々と新しい景色がそこには広がっているかもしれない。

わからないことを知るって面白いことだから、いわんや好きな人のことをや。

なので、少しずつ、他者を他者として他者のまま話せるように練習しようかなと思いました。失敗したくない瞬間だって、嫌でも何度もやってくるだろうし。わからないと言う勇気を持とう。そしてわからないことを丁寧に聞こう。みたいな。

なんて、文章にまとめてしまったらやはり、たくさんのことがこぼれる気がしているので、よかったらこの本の読書会の様子を聴いてください。仲間たちと「人と話すってむずかしいね」っていう話を長々としているので。楽しかった。



こういう時間もまた、一つの答えのようなものなのだと思う。長い時間が脈々と流れている日々の中の、ばちっとした線香花火のように一瞬のこと。
こっちのほうが、ちょっとした文章を書くよりも、たくさんのことに触れることができている気がする。
それでもまだまだ言えてないこともあるけれど、話というのはどこかで終わるのだ、ということもまた大切にしたい、それを知ることも、上手に話をするということだと思うから。終わりってむずかしい。なんで時間はいつか終わりに行き着くのだろう。



もう、話すってよくわからないし、むずかしい、ほんとうに。

そう書き記すことは、考えているうちに少しずつ、恥ずかしくなくなったきたけれど。




(けむり)


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