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眠れない夜の、ひとりを知るおまじない / ジュンパ・ラヒリ『わたしのいるところ』


ジュンパ・ラヒリという作家の『わたしのいるところ』という小説の話をします。とても好きな本です。


新潮社クレスト・ブックスから出版されていて、
訳者は中嶋浩郎です。



「眠れない夜の、ひとりを知るおまじない」


小説や本のことが好きな人には、得てして「お守りみたいな本」があるのではないでしょうか。

例えば僕にとってのお守りのような本は、ミラン・クンデラという作家の『存在の耐えられない軽さ』だったり、
(それは自分にとって今のところ人生観そのものだから、常に机の上に置いてある)
その、『存在の耐えられない軽さ』には、主人公のテレザが、生まれ育った田舎から小さな縁を頼りに一大決心をして、単身都会へと乗り込む際に、トルストイの『アンナ・カレーニナ』を抱えこんで、もうひとりの主人公であるトマーシュを訪ねる、というシーンがあったり。そんな風に。

僕にとって、ジュンパ・ラヒリの『わたしのいるところ』も、そういう本のうちの一冊です。お守りたちの中では、比較的最近手に入れました。

そして、この小説がとても好きで、そのことを聞いてほしいから、紹介する体で文章を書いています、夜の底から。

僕が『わたしのいるところ』をお守りとして置いているのは、枕元です。そしてこの本が僕の日々の中で登場するのは、たまにあるどうしても眠れない夜。僕がこの本を開くのはそのときだけです。


もうだめだ、このままじゃどうにも眠れないし、されども暗闇を見つめることもできない、みたいな夜のこと。

その夜に浮かんでいるのは、
明日の予定のこととか、やりたくないのにやらなきゃいけないこととか、目には見えない不安とか、手の届かない理不尽な暴力とか、そして暗闇からどんどん聞いてないのに降り掛かってくる思い出したくないこととか……

そういう感じ。もしくは理由なんてほんとうに何もないときもあるかもしれないけど。そういうときは、色々なことをひとまず置いておいて、むしろ灯りをつけてから、その夜を楽しいものにするために工夫しなくてはいけない。

だって「この先」のことより、「この夜の私」のほうが大事でしょう?


そんな夜に、僕はジュンパ・ラヒリの『わたしのいるところ』を読むようにしているのです。
温かい紅茶にはちみつをいれて、ベッドに足先だけを入れながら体育座りで、この本を読む、みたいな。そんな感じの雰囲気を心がけつつ。
それが僕が生活の中で唯一、このお守りを頼りにするときで、頻度はそんなに多くないけれど、そういうことってきっと大切なことだと思う。そうでしょう?


ここまでで、正直この本の魅力を語れているような気もしているし、おすすめしたいという点でも十分効果的なんじゃないかって思っています。


似たようなひとり夜会としては他に、普段は吸わないようにしているアメスピに火をつけて、tofubeatsの「水星」とUNISON SQUARE GARDENの「オリオンをなぞる」を聴くこととか、ベランダで。なかなかな自分に酔いしれて沈み込むこととかもあるのだけど。
薄暗い部屋でラヒリを読むときとは違う孤独がその部屋にもあるようです。

なんか、恥ずかしいことを書いている自覚は薄くあるのだけど、こういうことって他の人、例えば文章を今読んでくれているあなたの日々にもあるよね?それをただ他人に言ったりしないだけで。

でも僕は、ほんとうに昔から寝付きが悪いんです、もうびっくりするくらいに。だからこういうことはとても大切にしているんです、眠れない夜をむしろ特別な夜にしようということ。



さて、そろそろ本の話をしましょう。


『わたしのいるところ』で描かれるのは、昔から住んでいる街でひとり暮らしをしている「わたし」の、日々から文章として切り取った、生活の切れ端たち。

文量にして1章がだいたい1ページから3ページくらいの、短い文章が46章ぶん入っている、ゆるく繋がってる短篇、よりも短い文章の掌篇小説集みたいな感じです。
主人公の「わたし」はイタリアの、明示はされないけどたぶんローマみたいな街で、ひとり暮らしをしています。40代後半の女性。職業は大学講師、と、おそらく小説家。


そんな「わたし」が語るのは「わたし」を取り巻く小さな世界との、日々の中でも「ひとり」を切り取った接点。そして、その語りが繊細に触れるのは、「わたし」の生活のあり方、ひいては存在の足場みたいなものの揺らぎと、どこにもいかない過去という、どうしようもない傷跡のこと。


「わたし」は日々折々のなかで、慣れ親しんだ街の、バール(イタリアの酒場兼カフェ!)とか、広場で、もしくは催事のときなどに、昔のこと、家族のことや、昔好きだった人のこと、その人と歩んでいたかもしれない人生の行方や、なんてことのない今へと続いている過去の縁のこととか、そういう自身につきまとってどこにもいかない過去という「物語」に思いを馳せます。


そしてそれは、とてつもなく「ひとり」でしかできない行為です。自分だけが知っていることが、一つの人生を織りなして、そして今このときの目に映っている世界まで続いているということを、じっと見つめること。そのちょっとしたグロテスクさ。



そんな日々が織りなす世界を、「わたし」は自分だけの視点で、もしかしたら日々に埋没してしまいそうな小さなこと、彼女にしか見えていない世界の断片を、繊細に、丁寧に拾いながら過ごしています。

例えば、普段通る道端の小さな慰霊碑を横切る際、遺族からの簡単なメッセージの裏にある物語を想像して、そしてその誰も見向きもしないような小ささに、少ししょんぼりとしてまた歩きだしたり。

そういう世界と接しているちょっとした視点の、目の良さみたいなものがこの小説の、どことない多幸感を醸し出しています。そこにある日々を、少しだけ好きになれるような。


それは「わたし」が小説家であることも関係しているかもしれません。


少しだけ、ジュンパ・ラヒリという作家の話をしましょう。

ジュンパ・ラヒリはもともとは英語で書く作家です。僕は代表作の『停電の夜に』という短編集しか読んだことがないのだけど、これもまた特に表題作は、ラヒリにしか見えないあり方で小さな世界の形を浮かび上がらせる、温かい視線の話です。これもおすすめ。

そんなラヒリのルーツはベンガルにあり、彼女の英語の小説ではアメリカのインド系移民の世界が描かれています。だから、ラヒリにとってベンガル語に次ぐ第二言語の英語で書くということは、彼女にとってどこまで行っても自分のルーツを意識させる営みでした。

『わたしのいるところ』はそんなラヒリにとって第三言語である、イタリア語で書かれた作品です。ローマに移住し、イタリア語で書くことによってラヒリは自分の人生と言語についての葛藤から逃れて、他に彼女が関心があることについて、まっさらな言葉で書くことができているのかもしれません。

(以上、『わたしのいるところ』の訳者をあとがき参考にしつつ)


そんな、『わたしのいるところ』で書かれていること。

それは、

どこにでもいるかもしれない人の「今を切り取る視線」と「自分だけの物語」のもつれ、すなわち「孤独」を引き連れて歩く姿。そしてそれを尊いものとして見つめる作家の温かな視線。

そして「わたしのいるところ」とは、ラヒリのルーツがあるところではなくて、透明性のある第三言語で書かれた、もっと世界中のどこにでもある、ある一人の「わたし」のいるところ。
その、世界の中の、ルーツとも繋がりとも、社会規範や倫理などとも切り離された、誰でもあり得るような人の、「ひとり」の営み。


みたいな感じだろうか、僕が思うに。


そんな好きな小説について、一言で言えるわけないでしょうが、と思いながら。


まあでも語りたいから、それでも。


そう、そんな「わたし」が、ありふれているようで全然ありふれていない、世界の、そのありふれていなさを構成している、自分だけが知っていること。すなわち「孤独」を連れて、街を歩き、過去に思いを馳せ、そして文章にして語る。


そのなかで「わたし」の「孤独」との付き合い方が、流石とても上手というか、「孤独」とともにいることでしか気づくことができないような小さな幸せを、拾ってきて言葉にするのが上手なところが、僕がこの本の好きなところです。


素通りしてしまいそうな世界を、「孤独」と歩いていて、こんなに素敵なことがあるんだ。

ということを、小さな世界との「ひとり」の触れ方を語ることで、静かに見つめ直すような、短いエピソードたち。

そこにはきっと、街の息遣いと生活との距離感とかとか、人と人のあいだにほんらいあるものの機微とか、彼女にしか語れない、世界のあり方、断片、幻の後ろ姿みたいなものたちが、幽くふんわりと浮かび上がっているのでしょう。


それはたぶん、眠ったら忘れているかもしれません。ラベルを貼ってしまっておきたいような、素敵なものの見方のこと。
でもどこかの、いつかの僕の世界で、「孤独」をつれた散歩の、例えば一瞬しかない太陽の位置により影が幻惑的に見える橋の上とかで、いつの間にか上手なものの見方ができるようになっているのかもしれない。
まあ夢ってそういうものだよね。


そして、

夜の底の冷たさに触れながら『わたしのいるところ』を読んでいると、ぼんやりとした像を結ばない「誰か」、それでいてとても大切な「人のようなもの」が背中から身体を寄せて抱きしめてくれるような、温かい心地がするときがあります。きっとそういうドーパミンみたいなものも出ているような。そばで寝ているぬいぐるみのおかげかも知れないけれど。

その、眠れない僕をそっと、優しく抱きしめてくれている「不在」のことを、「孤独」と呼ぶことができるのだということを、僕はこの本を読んだのでもう知っています。

そのことを本を開くことで思い出すことができます。

それって僕にとってなかなかの発見だったと思っています。「孤独」って冷たいだけのものだと思っていたから。なるほど、こういう温かさだって「孤独」ということができるのだな、と。


だから夜の底で、とても一人で、どうしても眠ることができないとき、

『わたしのいるところ』を読むと、少しだけ落ち着いて、穏やかに色々なことを考えることができるようになる。そうして、日々にまとわりついている閉塞感を、少しゆるめて、じゅうぶん本を読んだら眠りにつく。

「孤独」に備わっている「温かさ」のことを思い出すために、どこか遠くの、どこにでもいるような「わたし」の日々の切れ端に思いを馳せることは僕にとって大切な時間なんだと思います。いいでしょう。


眠れない夜はさみしいから、だからこそ「孤独」の、普段は見えない側面を、作家の温かい語りに触れることで味わうにはもってこいだと思いませんか?


僕にとってお守りとしての『わたしのいるところ』はそういう、たまにだけ、ひとりじゃないと知れないことがたくさんあることを、思い出すためのおまじないになることができる小説です。


よかったら、手に取ってみてください。とても読みやすいし、装丁はおしゃれだし、あなたの部屋にもきっとすぐ馴染むと思います。

そしてたまに思い出したいときに、読んでみたらいいかもしれない。

僕はこの本を、これからどの部屋に移動しても持ち歩くでしょう。それは僕が、例えば想像のつかない遠くへ行くことがあったとしても。遠くまで行っても、「孤独」は、どこでもなく「わたしのいるところ」にあるのだということもまた、小さな恩寵のようにそっと記されていることだから。

(あともちろん『存在の耐えられない軽さ』と、『モモ』と、あとは堀江敏幸の『燃焼のための習作』とか、乗代雄介の『旅する練習』とか、あともちろん辻村深月、江國香織、谷崎の本だって一冊くらいは持っておかないと行けない気がするし(?)……結局いろいろ。そういうものだよね?)




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眠気はだんだん消えていき、ついにはわたしから離れていく。誰でもいい、誰かが現れるのを待ちつづける。その真っ暗な時間に頭を占めるのは、暗く明晰でもある考えばかりだ。静けさが黒い空といっしょにわたしを押さえつけている。明け方の光がその考えを薄め、人生の仲間たちが家の下を通る音が再び聞こえてくるまで。    
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(ジュンパ・ラヒリ「ベッドで」より一部抜粋、『わたしのいるところ』p110、中嶋浩郎訳、新潮社、2019年8月25日)








この文章は、眠れない夜に『わたしのいるところ』を読んでいて、書きたくなったので書きました。

(けむり)


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