マークの大冒険 フランス革命編 | 最後の戦いの始まり
父の書斎には、ありとあらゆる本があった。いわゆる、ミニ図書館だった。最初は、天文学に興味があった。この書斎で天文学の本を開き、宇宙の神秘に思いを馳せると、いつも不思議な心地がしていた。父の書斎で、使い終わったカレンダーの裏紙に星座の図を一緒に描いたことを今でもよく覚えている。
その後も父の書斎に勝手に立ち入っては、鉱物、化石、美術、歴史、民族、仮面、映像、医学、言語、童話など、あらゆるジャンルの本を手にとっては読み漁っていた。少し読み疲れると父の机の上に置いてある地球儀をぐるぐると回して、小さな世界旅行の気分を味わう。死ぬまでに幾つ足を運べるのだろう。
書斎の壁にはアジアやアフリカの部族仮面がずらりと飾られ、天井からはチェコの操り人形が幾つもぶら下がり、床はアラベスク模様の絨毯で覆われている。こんな風変わりな部屋は、きっとどこにもないだろう。棚には外装が美しい万華鏡が何本も置かれており、端から手に取ってひとつずつ覗いてみる。
その世界は見たこともないほど美しく、鮮やかで幻想的で神秘に溢れていた。明らかに普通の万華鏡ではないことは私にも分かった。棚の引き出しを開けると、今度は万年筆のコレクションが並べられている。書き味を試してみたいと思ったが、ペン先を傷つけたら叱られかねないと思い、試し書きは断念した。
一通り部屋を回ると、オーストリアから輸入したと言っていた彼の自慢の一人掛け木椅子に深々と腰掛ける。座り心地を少し堪能し、再び読書に戻った。そうして本を読んでいるうちにいつの間にかうたた寝していた。目を覚ますとすっかり夕方になっていて、出窓から入る夕陽が部屋全体を赤く照らしていた。
しばしば人の幸福とは何かと考える。日を増すごとに、それについて考えるようになった。この生きづらい時代において、幸福の見つけ方は人それぞれで、人の数だけその答えはあるのかもしれない。だが、自分にとってはこうした何でもない時間こそが幸せだったのかもしれない。ふと、そう思うことがある。
社会に出れば、そこはもう戦場である。答えが用意されたアカデミーの世界と違い、社会には答えなどどこにもない。守られたアカデミーと違い、社会には魔人のような人間が溢れていて、ひどく傷つく日もある。父の書斎というサンクチュアリで過ごしたあの時間は、幸福の極みそのものだったのかもしれない。
The end of my little sanctuary.
あの小さな聖域とも言える幸福な時間は終わりを迎え、社会という戦場で魔人たちと抗争し、日々疲弊していく。人間、サンクチュアリで過ごす時間の方が圧倒的に少なく、魔人と渡り合わなければならない時間の方が永遠とも思えるほどに長い。これは呪いか、罰かなのか___。
🦋🦋🦋
年代不詳、ハデスの冥界___。
「この扉の先にハデスとケルベロスが待ち受けている。冥界から脱獄しようするボクらを止めるために。ボクらは戦いに敗れるかもしれない。どういう戦いになるかも、そもそも勝てる見込みがあるのかも分からない。でも、進むしかない」
「......」
「おい、聞いてるのか?」
「......そうだったのか」
「急にどうした?」
「マーク、思い出したよ。俺は研究者を志していた。でも、ポストの見込みがなくて。だけど、俺にはこの道しかなくて。だから、たぶん......。自殺未遂を図った。それでここにいる」
「記憶を、取り戻したようだね」
「バカだったよ。ほんの気の迷いだった」
「いや、分かるさ。痛いほど分かる。自分のことのようにね。でも、ボクらは本当は誰よりも幸福なんだ。死語への理解、すなわち死者の言葉が分かるという特権。古代言語を解するボクらは 、死者の言葉を自在に聞き取ることができる。それは普通の人間にはきっと一生できないことだ。そんな超特権的能力を持っていて、不幸なんてことはない。でも、死者の言葉が聞き取れても、ボクらが死者になるにはまだ早すぎると思うぜ」
「そうだな。なあ、マーク。俺たちはここを抜けたら、また会えるのか?」
「キミが望みさえすれば。だから、必ず生き還るんだ。まだキミは仮死状態で望みはある。後遺症が残るかもしれない、今まで通りの生活はできないかもしれない。それでも、死んでしまうよりはマシだろ?だから頑張って息を吹き返せ。生きる強い意志があれば、その道はきっと開かれる」
「分かったよ」
「キミほどの実力を持つ者が若くして死ぬのは惜しい。たとえポストにつけなくたっていいじゃないか。研究を通して身に付けた精神力や達成感は決して無駄にならない。研究は別の仕事をしながらでもできる。ボクもそうした人間の一人だ。生き方は、ひとつじゃない」
「そうだな。確かに生き方はひとつじゃない。でも、あの時、余計なプライドがそれを許せなかったんだ」
「キミはここから出たら、きっと自由だ。それに比べてボクは、キミよりもずっと深刻な状況さ。ここを出たところで、どうなるか分からない。ボクは罪を犯しすぎて、神々から記録抹消刑を受けてここにいる。大幅な歴史改変、運命に反した不道徳な人命救助及び罪人の脱走ほう助、黄金の果実とアムラシュリングの乱用、罪状を挙げていったらキリがない。だからボクは、裁判なしで神々に消された。ウェスタが眠るうちに開かれた会合でね。ダムナティオ・メモリアエってやつさ。存在ごと抹消されたんだ。人々の記憶からも、ボクの存在は消える。まさに記録の抹消。でも、全ては誰かを助けるためだった。誓って誰かを陥れたり、故意に傷つけたり、私腹を肥やす目的ではなかった。ヴェルサイユの地下のブルボン家の秘宝にも一切手をつけなかった。まあ、そんなボクのお気持ちは、神々にとってはどうでも良いことだが。でも、ボクにもまだ望みはある。肉体が完全になくなったわけではない。記録抹消刑にあって肉体ごと存在を消されたはずだが、おそらくアムラシュリングがそれを守ってくれたんだ。肉体はどこかにあって、今ボクは冥界を彷徨っている。肉体があるうちは、ボクもキミも戻れるチャンスはある。たとえこの先に試練が待ち受けたとしても、二人で必ずここから出よう。そして、再会しよう。再会の場所は、キャンパスの時計台の下。赤煉瓦の校舎の壁に寄り掛かって本でも読みながら、ボクは待っているよ」
「分かった。必ず会おう。でも、ここまで思い出したのに、最後に自分の名前だけが何故だか思い出せないな」
「ハデスを倒したら、きっとそれもわかるさ。名前は人間の存在そのものだからね。最も大事なものだ。だからこそ、ここを切り抜けないと思い出せないのかもしれないね。それじゃあ、この扉の先へ名前を取り戻しに行こう」
「ああ」
「最後にひとつ。もし、ここを抜けた後も、キミがどうしても自分のために生きられないというなら、ボクのために生きてくれよ。同志が志半ばで死ぬなんて、それほど不幸なことはないぜ」
🦋🦋🦋
1794年、パリ____。
「お前は必ずまた現れると思っていたよ」
「ロベスピエール......!キミとボクは似た者同士。最高の友達になれたかもしれない」
「マーク、頭の良いキミなら分かるはずだ。私の成し遂げようとしていることの偉大さを」
「だが、もっと別の方法があった!暴力に頼るのは間違いだ。剣を振るう者は、剣によって身を滅ぼす。ギロチンを振るう者は、ギロチンによって最期を遂げることになるぞ。死刑廃止論者だったキミが、なぜ処刑を率先して行っているんだ!」
「分かっていない。別の方法など、どこにもなかった!誰かが犠牲にならなければならない。誰かが怪物にならなければ、フランスは変えられなかった!それは変えようとしなかった者だから言えることだ!なら、今すぐ答えてみろ!私はどうすれば良かった!答えろ、マーク!」
「......」
「答えられないだろう。それがお前たちだ。お前たちのような上べの綺麗事だけを並べる奴が一番卑怯だ。間違っていることなど、言われずとも分かっている。重々承知の上で、私はこの身を、生涯を、フランスに差し出した。財産、地位、名誉、そんなものに興味はない。ただ、飢えに苦しむ弱者を穢れた貴族どもから救いたい。それだけだ。そして、この高尚な行いの前に立ちはだかる者は、全て敵とみなす」
「ボクらの戦いは、避けられないのか?」
「残念だよ、マーク。フランスのために死んでくれ」
「......」
「果実は、私に全能を与えた。これは神からの送りもの。指名を果たすべきというね」
「違う!果実は決して全能なんかじゃない。果実を使う度にキミは記憶を失い、最期は言葉を発せなくなる。そして、終いには呼吸の仕方さえ忘れて死に至る。今ならまだ間に合う!もうここでやめよう!果実をこちら側に渡してくれ!キミを殺すことはしない。ボクを信じてくれ!」
「信じられるか。もう全てが手遅れだ。私は人を殺し過ぎた。果実を手放したら、必ず誰かに殺られる。この身を守るためにまた誰かを殺すしかない。少しでも疑いのある者、私に反感を抱く者は、即刻排除しなければならない。マーク、お前もその一人だ」
Shelk🦋