[映画感想]'ジム・ヘンソン アイディアマン Jim Henson IDEA MAN' dir. Ron Howard
創造を決して止めるなかれ
以前から楽しみにしていたジム・ヘンソンのドキュメンタリーを見た。
"創作=アイデア"をキーワードに、文字通りクリエイトし続けたヘンソンの人生を初期の活動から最期まで、私生活も含めて全てを語り尽くした感がある。特に、ヘンソンが実験映画を撮ることにこだわっていたことや、新しいテクノロジーへの愛情、アイデアが映像世界だけに収まりきらず、遊園地やクラブ、ブロードウェイやバレエにまで広がっていたことなど、今作ではじめて知った情報もたくさんあった。
何年も前、ブログでジム・ヘンソンのことを取り上げたことがあり、彼が生み出したアイデアの中でも黎明期に形になったカエルのカーミットは、おそらくはヘンソンのアルターエゴではないかと書いた。ところが、それに対してマペットたちとヘンソン自身のパーソナリティーを、そのように安易に結びつけるべきではないというご意見をもらったのだ。このドキュメンタリーを見ると、それが正しいことがよく分かった。
どのアイデアもどのマペットも、無数にあるヘンソンのアイデアの切れ端が、幾つもの側面から検討されて繋がり、他のアイデアと化学反応を起こしながらカタチになったものだからだ。ヘンソンが作った全てのマペットたちに等しく、彼の個性や人柄が反映されているというわけだ。
映画監督で人形使いで、マペットの番組及び映画を企画・製作する会社で数百人の社員の生活を守っている毎日。毎日毎時間毎分毎秒アイデアを捕まえ膨らませカタチにする。
ヘンソンと同じく映画監督で人形使いのフランク・オズは、17歳のとき初めてヘンソンに出会って以来、人形使いとしてヘンソンと共に演じ続けてきた。そして、ヘンソンが内面的で物静かな男だった頃から、やりたいことと新しいアイデアで頭の中がスパークしているワーカホリックに変身するまでを見つめてきた。いつも時間との戦いで、スケジュールはびっしり。世界中を飛び回る。創造することに関しては、細い体で超人的なパワーを発揮した人生であった。
ヘンソンは高校卒業後、人形使いを募集していたテレビ局でオーディションを受け、業界に入った。しかしヘンソンは、その時一度も人形劇を見たこともなく、子供の頃人形で遊んだ覚えもなかった。家にテレビがやってきた時、ヘンソンの運命が決まった。テレビのもたらす"世界"に夢中になってしまったのだ。ヘンソンにとって当初"人形劇"はテレビ業界に入るための手段だった。
1954年、ヘンソンはメリーランド大学に入り、人形劇のクラスでジェーンと出会う。意気投合した2人は、夜の11時半から始まるWRC TVの人形劇'サムと友達'を一緒に制作し始める。必ずマペットたちの歌で始まり、音楽に乗った無言劇や頓狂な寸劇をアニメーション的視覚効果で繋げていくのだ。後年のセサミストリートで確立される手法の基礎が出来上がったということか。ただし番組は生放送一発勝負。これがワシントンで受けた。テレビの黎明期でもあり、ヘンソンは好き勝手に自分の"実験"をテレビで行うことができた。人形のデザインにも試行錯誤を続けた。カエルのカーミットは既に誕生しており、様々な役割を番組でこなしていた。時間が経つうちに、カーミットには創造主ヘンソンのキャラクターが吹き込まれるようになった。
’サムと友達'には創造的自由があったが、ヘンソンは映画製作や、人形劇以外の作品を作りたかった。人生の転換期に来ていることを感じた彼は、1958年6月から8月にかけてヨーロッパを旅した。ここで初めてヘンソンは、ヨーロッパの伝統的な人形劇をたくさん見て、芸術の一形態である人形を使って独自の表現ができるという確固とした考えを持つに至った。
ヘンソンは帰国後ジェーンと一緒にマペット株式会社を作り、1959年5月28日結婚した。エミー賞も受賞する。
新婚夫婦は全米人形劇大会にも2人で参加したが、そこで色々な才能に出会い、ヘンソンはチームを作ることを模索する。若き人形使いフランク・オズノヴィッチが観客の心を掴んで離さないと聞けば彼をスカウトし、脚本家ジェリー・ジュールもやってきてヘンソンの仲間になった。天才的マペット製作者ドン・サリーンもマペット社で天才となった。マペット社はこの4名を中心に動き始める。
ドンが作ったマペット"ロルフ"は、ABCのジミー・ディーン・ショーに出演して大スターとなる。マペット社は、雇用している従業員に給料を払うため数えきれないほどのCMを撮影した。マペットのコマーシャルは数秒商品を宣伝した後、暴力的なジョークを披露して終わる。コマーシャルの仕事は、明らかにヘンソンの神経をすり減らしたが、彼はチームを鼓舞し続けた。より大きな目標に向かうためだ。
ヘンソンは実験映画の作家でもあった。CMで稼いで週末に映画を撮る。家族のホームムービーにさえ、ストップモーションや実験的アイデアを凝らした。音楽家のようなスタンスで映像に取り組み、'タイム・ピース'という短編映画も撮った。実写やアニメーションなどの断片的な映像をリズミカルに繋ぎ合わせたもの。ヘンソンの思考回路そのものような作品だ。常に時間に追われていたヘンソンらしく、"時間"の概念を様々な手法で表現していた。
ヘンソンはまた、時代を映す鏡のような作品を熱心に作った。'ユース68’という番組では、様々な立場の人々の様々な意見をリズム良く再編集した。’ザ・キューブ'という作品では、別の現実世界に囚われた男を描いた。しかしヘンソンを最も魅了したのは、'サイクリア'というディスコを作るアイデアだった。実験的映像、実験的音楽を立体的に演出するのだ。
そんな時、ヘンソンはチルドレンズ・テレビジョン・ワークショップから参加を要請される。当時子供達は週に40時間もテレビを見ており、就学前の子どもたちに必要な学習を促し、教育者にも教育のあり方を考えてもらえるような、子ども向けのテレビ番組を制作することになったのだ。ヘンソンのマペット、実験的映像表現、スピードと美を追求する編集技術は、子供達の知的好奇心を刺激する番組に欠かせない。ヘンソンは迷った末に、テレビの可能性を信じて子ども向け教育番組の制作に踏み切った。テレビは子供達に大きな影響を与えるのに、テレビ業界はその責任と向き合っていないという思いもあった。また、1人の父親としても、子どもたちがどう学ぶのかという問題に向き合うべきであった。そして、今も世界中で放映され続けている'セサミストリート'が誕生する。’セサミストリート'は時代が求めた作品であったのだ。
また、思い起こせば、セサミストリートの数字やアルファベットは、音楽に乗って歌ったり踊ったりしていた。マペットと生身の人間が当たり前のように共存する世界観然り、ヘンソンが撮っていた'サムと友達'や実験映画同様のぶっ飛んだクールな映像だったわけだ。
1969年にセサミストリートのパイロット版が完成。キャロル・スピニーという新しい仲間が伝説的マペット"ビッグバード"や"オスカー"を演じた。カウント伯爵、クッキーモンスター、ガイ・スマイリー、アーニーとバートに、忘れちゃいけないカーミット。彼らはヘンソンやフランク・オズといった名人形使いによって、命を与えられた。特に、ほとんどアドリブだったというヘンソンとオズの掛け合いは見事で、両者共にキャリア最高の演技を披露した。
1970年代も、'セサミストリート'は素晴らしい子供達のための素晴らしい番組であり続けた。結果として、子供のみならずあらゆる年齢層に大受けしたのだった。'セサミストリート'の大ヒットのおかげで、マペット社は事業を拡大した。
ヘンソンはマペットたちをブロードウェイやバレエ、遊園地などにデビューさせることを夢見ていた。ヘンソンは夜寝る間も惜しんで新しいアイデアを生み出し続けた。家族の休暇にまで仕事を持ち込むほど。ジェーン夫人は、'セサミストリート'が、マペット社がそんなに巨大な存在になると予想できなかった。だが、根っからの芸術家で自由でパワフルだったジェーンは、伝統的な妻と母の役割を彼女に求める夫に反発し、1973年独立を宣言した。
ヘンソンは、マペットたちが主役の30分のバラエティー・ショー('マペット・ショー')を企画していた。ヘンソンをはじめ、フランク・オズ、ジェリー・ジュールやドン・サリーンは、あらゆる局に猛烈な売り込みを行ったが、日の目を見なかった。
イギリスの興行主ルー・グレイド卿は自身の所有するスタジオで撮る番組を探していた。そして、野心的な彼は、奇妙なマペットたちによるぶっ飛んだバラエティーショーという野心的なアイデアを気に入ったのだ。'マペット・ショー'はイギリスで、完全な金銭的自由と完全な創造的自由を得て実現することになった。イギリスでは、ショーのための新たなマペットたちが作られた。イギリスの古い演芸場で、奇妙なショーが開幕するというコンセプトが固まる。グレイド卿は、イギリス中のローカル局に'マペット・ショー'を売り込んだ。そして、この一か八かの"興行"は、何と大当たりをとるのである。
このショーでは、クレイジーなマペット芸人たちをまとめ上げるリーダーとしてカエルのカーミットが奮闘した。ミス・ピギーなどは、このショーで人気者になったマペットだ。番組はヒットし、毎週豪華なゲストを迎えるようになる。ジュリー・アンドリュースやリタ・モレノ、ライザ・ミネリ。ゲストを中心にショーの構成や雰囲気を変えていく手法で、'マペット・ショー'はうまく機能した。カーミットの歌う'緑でいるのも楽じゃない'は名曲だと私も思う。カーミットは、金色でもないし星のようにキラキラ光るわけでもない、緑色のおかしな風貌のカエルなのだ。それでも、緑でいるのも悪くないと歌う。皆、もっと"違うこと"に寛容になろうよ。
'マペット・ショー'は、人形を"スター"にした初めての、そして恐らくは唯一の番組として今でも世界100ヵ国以上で放映されている。
ついにマペットたちは、マペットによるマペットのためのマペットの映画を作ってしまった。それが'マペットの夢みるハリウッド The Muppet Movie'(1979)である。映画はマペット社に新たな世界を開いた。
1979年はヘンソンにとって大きな飛躍の年となった。ニューヨークに本社を構え、新たなビジネスとして商品部門と販売部門を作った。マペット帝国を築いたのだ。ヘンソン自身は、道端でファンに気づかれるほど有名になったが、その代償として彼の創造の源であった無邪気さは失われていく。'マペット・ショー'の撮影のためにロンドンに赴き、マペット社のためにニューヨークにもいなければならない。もちろん'セサミストリート'のためにも時間を割かなければ。忙し過ぎて家にもいられない。フランク・オズは、肺炎になっても仕事を続けるヘンソンを心配していた。そんな矢先、マペット社のビッグ4の1人、ドン・サリーンが亡くなった。
ヘンソンはドン・サリーンの死に何を思ったのだろう。'マペット・ショー'は5シーズンで全てをやり尽くしたと、ヘンソンは大ヒットシリーズに終止符を打った。彼には次なる野望があったのだ。映画'ダーククリスタル'(1982)の製作である。'マペット・ショー'とは全く違う世界観。おどろおどろしいクリーチャーの数々を制作するため、ロンドンに工房(ジム・ヘンソン・クリーチャー・ショップ)を作り、そこに人形制作のアーティストたちを集めた。ヘンソンは、フランク・オズを共同監督に据えた。映画は完成したが、最初の試写は大失敗。キャラクターたちのセリフを英語にし、脚本を全面的に書き直す羽目になった。かの'E.T.'と同じ時期に'ダーククリスタル'は公開され、なにかと比較されたが、その芸術性と実験的精神で成功を収めることができた。その陰では、ヘンソン夫妻が離婚していた。お互いに最愛の人には違いないし、多くの危機を2人で乗り越えてきたが、一緒には暮らせない。そんなカップルであった。
ヘンソンは、'マペット・ショー'や'マペット・ムービー'、'ダーククリスタル'が他の見知らぬ会社に所有されることに危機感を覚え、全てのものを抵当に入れて資金を作り、マペットたちの作品を買い戻すことに成功した。
'ラビリンス 魔王の迷宮'(1986)には、デヴィッド・ボウイとジェニファー・コネリーが出演した。私は'ダーククリスタル'が大好きだったし、クリーチャーだけが存在する異形の世界があまりにも完璧で美しく完成されていたため、こんなにクオリティーの高い世界を再び作れるのか不安だった。ヘンソンの新作に落胆したくなくて、ボウイ目当てで観に行った映画だった。海の向こうの観客も同じ思いだったか、1986年に公開された'ラビリンス 魔王の迷宮'は興行的にも大失敗してしまった。
'ジム・ヘンソンのストーリーテラー'(1986)など、その後も多くの企画を抱えていたヘンソンは、マペット社を大好きなディズニーに売却することを決定した。金の心配をせずに創造に没頭したかったのだ。ヘンソンには、まだまだやりたいことがたくさんあった。ある日ヘンソンはオズに電話をかけ、いつもの調子で"フランク、話があるんだ"と切りだした。それが、オズがヘンソンと話した最後の会話となった。
チクタク、チクタク。ついに"時間"がヘンソンを捕まえてしまった。1990年5月16日、マペットの生みの親ジム・ヘンソンが死去。53歳の若さであった。
今は子供達が"ジム・ヘンソン"という偉大な光を守っている。
なんという人生だろう。なんという濃密で愛と力に溢れた人生だろう。とても我等のような凡人には真似できない。優劣の差ではない。一つのこと…人間の善性を信じ、愛を全ての人に届ける…に文字通り全人生をかけたという意味で、とても真似のできない人生だった。"創造を決してやめない"人生の裏で、家族が犠牲になった悲劇はあったが、その悲劇すら見たこともない程明るい光のアニメーションに変えてしまう力強さが、ジム・ヘンソンにはあったのだろう。
彼の人生を語り尽くしたこのドキュメンタリー映画までも、創造することへの喜びに溢れている。このドキュメンタリーを見た後は、今度は私たちが"創造"する番だ。アイデアは誰にでも出せる。"良いアイデア"は私たちの人生を豊かにする。私たちもまた創造することを諦めてはならないのだ。
Disney +で鑑賞。