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【虚構世界】てつがく喫茶・Catharsis 二篇

{スタッフ菜奈の独り言 二篇} 

はい。
と恋人から渡されたものが
真っ赤なリボン付きの立方体のボックスで、
蓋を開けたらリングケースが入っていた。

そこで私は考えた。

今日は私の誕生日、しかもここは恋人が集う有名な夜景スポット。

このシチュエーションから察するに、
リングケースの中はきっと……

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ここは
てつがく喫茶、|Catharsis《カタルシス》 

哲学を学ぶ場所というより、気軽に”哲学する”ところ。



ただいま、オープン三十分前。
お客さまにお出しする哲学タイムのお供、
通称「哲トモ」なるスイーツの試食時間でもある。
しかもコーヒー付き。
いつも思う。これはただの休憩だろう、と。
でもマスターが、試食って言うからそういうことにしておく。

その”試食”において、私は今、目の前にある小さなお菓子から目が離せないでいる。
「なんか誕生日プレゼントの箱を開けたら、当てが外れたって顔してる」
 当たってるでしょ、っとカイ君がニコニコ顔で言う。図星だ。だから思い出してしまったじゃないか、あの苦い想いでを。

「今日はまころん・・・・風のおやつを出すって言いましたよ。勝手に菜奈さんが『マカロン』って思ったんでしょ」
「何言ってんの、今日はまころんだーっ!って思ってたし」
「じゃぁ”まころん”って何ですか、どこのおやつですか? 」
「……ドイツのお菓子」
「適当だなぁ、ちがいますよ。まころんは日本のお菓子なんですー」
カイ君の呆れた声をよそに、携帯で検索をかけてみる。
ページタイトルが”マカロンとまころん”というドンピシャな文字が見えたから、そのウェブリンクをタップした。

────まころんはフランス菓子、マカロン(元々はイタリア)のオマージュだ。まころんの発祥は名古屋のとある老舗であると言われている。マカロンにはアーモンドプードルが使用されているが、まころんには落花生を使用し、日本人に馴染み深い味となっている。
「まころん」というカワイイ響きと共に、やさしい味テイストが俺の心を癒す。今日も始めよう、スイーツの旅。 
by スイーツ探訪者、Ryo

これは、Ryoという人のブログなのか。本人は映っていないけど、マカロンに少し触れながらまころんのことが書かれてあった。

まころんには老舗があるらしい。
スクロールすると、丸くて可愛らしいお菓子の写真が出てきた。
そうか、これがまころんなのか。
こんにちは、まころん。そして初めまして。

「それ、Ryoさんのブログですね。いいなぁ、僕より先にまころんの老舗に行っちゃってる」
「え、この人まさかカイ君の知り合い? 」
「知らないです」
「だろうね」
だろうねってどういう意味ですか、言いながら、カイ君は私の携帯でRyoという人のブログを読み進めている。

「前から言いたかったんだけど、距離近いよね」
「え、そうですか? 」
すぐそばにカイ君の顔がある。鼻が高い。
この距離の近さはフランス生まれアメリカ育ちだからか? いやいや、欧米はスキンシップは日本に比べて多いと言えども、パーソナルスペースを重んじる傾向がある、って留学していた友達が言っていた気がする。

ってことは、カイ君の距離感がバグっているのか。ゆっくりと気づかれないよう・・・・・・・・に顔の距離を離す。

「大丈夫ですよ、奈々さんには頬キスとかしませんから」 
「なにそれ、菜奈さんには・・って」
カイ君はニコニコしている。むかつく。

「確かに僕はフランス生まれアメリカ育ちだし、近しい人には頬にキス、なんてこともありました。小さい頃はね。けど、僕は日本人。親ともに。だから日本の握手とかお辞儀とかの方が実は馴染んでいたりする。あ、でもハグはしちゃうなぁ」
「カイ君のご両親って日本の人なんだ」
思わず視線がカイ君の鼻に行く。だとしたらこの鼻の高さは生まれ持ってのものか、それとも、整……  
「整形じゃないから。一応、母親似だから」
「へぇ、天然でこの鼻はスゴイわ」
「なんか、下世話」
「立派な鼻してる、ってことよ」
「もっと嫌だ」

「Ryoさん…うちに来て……もらへ(え)は(た)ら……ええな」
マスターがバックヤードからこっちにやって来た。頬が膨らんでいる。それも結構膨らんでいる。リスか。
「因みにマスターの頬ん中、まころんでいっぱいだから」
カイ君の回答にもはやツッコミすら出ない。
「僕の作ったまころんは最高やわ、ってパクパク食べてたから」
想像がつく。マスターはこの喫茶のスイーツ担当であるカイ君をめちゃくちゃ可愛がっている。ちょっと異常なくらい。

「マスターってバカなんですか」
黒板に向かったマスターの背がぴくりとなった。そして、振り向きざまに手に持っていた水をごくごく飲み出した。頬の膨らみが段々と小さくなっていく。口の中のまころんに、おさらばしたであろうマスターが口を開いた。

「菜奈ちゃん、関西人に”バカ”はキツイわ」「すみません。なら、もう一度言い直します。マスターはアホですか? 」
マスターがニタリとした。関西弁は難しい、いや複雑だ。

改めて黒板に向き直したマスターがチョークを踊らせた。


『今日の哲トモ まころん』 


まころんの『ん』の端がクルンと上に伸びた。
こっちに振り向きざまに「この方がまころんらしいやろ? 」と言った。

「よく分かりませんけど、何となくその方がまころんっぽくてカワイイ・・・・・・・・・・・・と思います」

「まころんっぽくてカワイイ、か」
マスターが復唱する。復唱する時はマスターの哲学フックに引っかかった時。
「じゃぁ菜奈ちゃん、カワイイ・・・・って何やろなぁ」

マスターが考える姿勢をとった。右手を顎に添えて、左手は右肘を支えている。
いかにも、”考えている”モーションだ。
「カワイイ、かぁ」
マスターの復唱につられて、私の頭の中でもカワイイに対しての哲学が始まり出した。

「カワイイの定義ってよく分かりませんけど、とにかくまころんはカワイイんですよ、コロコロした姿が」
「それはきっと菜奈ちゃんの中に『カワイイ』っていうイデアを想像したからなんよ」

「始まった」とカイ君はバックヤードに戻った。哲学することは好きだけど哲学のアカデミックな話は苦手らしい。
分かるよ。哲学ってなんかこう、難しそうで、なかなか日常に落とし込めないから。
でもね、マスターの話はなんか好きなんだよなぁ。

「イデア……なんか聞いたことがある」
「プラトン」マスターが呟いた。
「あぁ、プラトン。ソクラテスのお弟子さんですよね。学校で習いました」
「そうそう、ソークラテースのお弟子さんや」
ソークラテース・・・・・・・の発音は健在だった。

「イデアとは『理想の本質』なんて言われてる」
「難しそう」
私の呟きにマスターが頷き、口角を上げた。これは”今から説明するぞ”って時によく出るマスターの表情。

「菜奈ちゃんは最初マカロンをイメージしてたんやろ?ほんで出てきたのはまころんやった。それで『マカロンちゃうやないカイ、まころんやないカイ、カイ君だけに』と言った」
「言ってませんけどね」

「じゃぁ元々菜奈ちゃんが想像してたマカロンはっていうのはどんなん? 」
「どんなんって、そりゃぁマカロンは、丸くて小さくて、表面はツヤっとしてて、色んなカラーがあって。食感は……しっとりしていて中にクリームとかジャムとか挟まれて、中にギュッと詰まった甘さがチャーツポイントみたいで。とにかくカワイイを代表するお菓子です」 

「めっちゃ、マカロン好きやん。でもさ、”カワイイ”マカロンって何なんやろって思えへん?菜奈ちゃんが求めている”完璧なカワイイマカロン”ってどこに存在するんやろ?世の中のマカロンは菜奈ちゃんが想像する”完璧なカワイイマカロン”とはちょっと形が違ったり、形じゃなくて、味も、色も、微妙に違ったりするやん? 」
「でも大体丸いですからね、マカロンは」 丸くないマカロンは見たことがない。 

「じゃぁ、その”丸い”って”完璧な・・・丸い?菜奈ちゃんが想像する完璧な丸いにどれだけ近い? 」
そう言われると分からない。

「マカロンに出会うたび、このマカロンはこういう感じかぁ、星三つ、いや星四つ!とか無意識に自分の理想のマカロンと比べてたりするやろ?菜奈ちゃんも」
「星は付けてないです」
まちゃあきじゃねぇよ、とツッコんだ方が良かったかも知れない。

「でもマスターの言う通り、自分の想像に中あるマカロンと比べたりしているのかも。その想像のマカロンはボヤっとしてるんですけど、自分が求めているものだっていうのは、何となく分かりますね」
そっか、それが私の完璧なカワイイマカロン・・・・・・・・・・・なのかも。

「そう、それが菜奈ちゃんの”カワイイのイデア”や。イデアっていうのは”理想の本質”ってことやん?菜奈ちゃんの思うカワイイマカロンは、丸くて小さい。ツヤもあってカラフル。中に挟まれたジャムやクリームがチャームポイントのよう。それが菜奈ちゃんにとってのマカロンのイデア。マカロンに限らず、人にはな、色んな事や物に対してイデア、つまり理想の本質がいつも頭ん中にあるってことなんよ」
ちょっと分かった気がする。分かった気がするだけで、すぐに理解できる程、シンプルな概念ではない気もした。

「プラトンはな『美のイデア』も追求した人なんよ。現実にある美は、美の本質を完璧じゃなく、理想的に具現化したものなんやて。この花綺麗やなぁ、って思ってもその花の裏側にある、目では見えない本質に対して綺麗や、って僕らは言うてるんやって、プラトンさんいわく。現実は不完全なんよ」
「それはお菓子の世界でも言えるよ。一見さ、完璧に見えるような仕上がりでもどこか不完全なんだよ。だからまだまだ進化できるんだ」
いつの間にかカイ君がバックヤードから出てきた。まころんの準備もある程度済んだのだろう。
「カイの言うそれこそ『不完全な美』や」

不完全な美。
一見すると対極的な言葉。
だけど感覚的にしっくりくる。
カイ君も「不完全な美」と何度もリピしては、おーっ、とか言っている。

「マカロンとまころん。同じではないん? 」マスターに言われて頷く。
うん、形も大きさも味も色も違う。

「正直、僕からしたらイデア論とかはどーでもええねん」
「えーっ」

あまりにびっくりしてお腹から声が出た。マスターがビクッとなった。
「いや、ごめんごめん。撤回する。僕が言いたいのは”イデア論が最重要ポイントではない”ってこと」
「というと? 」

「僕らは完璧な理想をどっかで想像してしまう。そんなイデアが常にある。でも僕からしたら哲学するっていうのは、偉人と言われてきた人たちの言葉を間に受けるんじゃなく、あくまそういう傾向があるよ・・・・・・っていうフェーズで受け取ることやと思うねん。誰かの言うことをその通りに信じ込むっていうのは、ただ他人の思考をなぞって、自分で考えてないに等しいと思うねんなぁ」
確かに。誰かの言うことが絶対だ!なんて考えは中々に危うい。

「つまり、イデア論に当てはまる傾向がある僕らやけど、ちょっと俯瞰すると、理想とは違った現実が目の前に現れた時、それをどう捉えるかでその人の生き方は変わるで、っていうことやとも思う。目の前の現実が理想とは違うからバツとするのか、新しい発見に繋がったとするのか、菜奈ちゃんはどっちの方が心地ええ? 」

マスターがにこりと笑う。
確かに、理想からズレたからって不幸せになるわけではないし、思い描いていた理想が正しいとは限らない。

「僕は、理想そのものを持たないからなぁ」
「なんで? 」とカイ君に聞けば、「理想を持つって目標があるようでかっこよく聞こえるけど、理想という呪縛に縛られてるみたいだから嫌なんだよね」と自由を愛するカイ君らしい答えが返ってきた。
「カイ君はさ、今日どうしてまころんを作ろうと思ったの? 」
「そりゃぁ縁を感じるものだからだよ、まころんは」

────縁を感じるもの

昨日のテーマを思い出した。
「じゃあ、フランスとかアメリカにもまころんはあったんだね」
「ないよ。だからDadが買ってきてくれてたらしい、日本に行く度にね。僕が好きだって何度も言ってたらしいから」

母のことは”お母さん”と呼ぶのに、父は”Dad”なのか。しかもDadの発音が無駄に良い。でもカイ君は”らしい”と話している。まるで他人事みたいだ。

「でもそのDadはさ、僕が六歳の時にいなくなったんだよね。それでしばらくまころんを食べられなくなって、母さんに僕が泣きついたらしいんだよ。まころん、食べたいー、って。それで母さんが日本に住む家族に頼んで日本から送ってもらってたんだって」
高いまころんだよねー、っとカイ君はさらりと話すけど、結構大変な幼少期を過ごしていたことを初めて知った。

「カイは、”Dad”の顔を覚えてるん? 」
マスターが遠慮がちに聞いている。しかもマスターも無駄にDad”の発音が良い。そっか、マスターも海外経験がある人だった。
「Dadの写真はあるよ。でも昔のやつ。めっちゃロン毛だった」
「ロン毛ってどのくらい? 」
別に聞かなくてもいいことだけど、今聞かなかったらカイ君のお父さんのロン毛の長さなんて一生聞かないだろうから聞くことにした。
「肩甲骨くらいまであったよ」
まじか。がちのロン毛じゃないか。
「ヒッピーみたいに世界を転々としてたらしい」 
自由な人なんだな、と思う。カイ君はそのエッセンスを受け継いでいる。
でも、カイ君のお母さんは大変だったかも。

「じゃぁ、お父さんもいつかここに来れたらいいね」
「どうかなぁ。でも不思議なことに僕の誕生日にはプレゼントが届くんだよね。住所は母さんのところだけど」
カイ君がニコリと笑った。その笑顔に悲しさは見えない。
きっとカイ君のお父さんがいなくなったには理由があるのだろう。その理由はなんとなくだけど、不健全なものではないような気がする。それはカイ君の表情を見ていると分かる。

カイ君が、「これ、今日の最高の出来なまころん」と言ってお皿に乗ったまころんを指差した。

「私、誕生日に当時付き合っていた彼からリングケースをもらったことがあるんです」

「めっちゃ話飛ぶやん」 
「今日のまころんを見て昔のことを思い出したんです」
「どんな昔話なんですか? 」

「誕生日の日に、夜景の見えるスポットで、恋人から、はい、ってリボン付きの真っ赤な直方体の箱を渡されたんですよ。箱を開けたらリングケースが入っていて……」
二人の顔が一驚した。

「それってもしかして、エンゲージリングやん」
「プロポーズってこと? 」
マスターとカイ君の声が弾んでいる。

「って思うじゃないですか」
「ちがったんすか? 」
カイ君が前のめりになる。
「中には入ってたのは……ブロンズのボタンが一つ」
そう、このまころんの形みたいだった。

二人の目が点になる。
本当に人間の目はてんみたいになるんだな。
なんか似ているな、二人。

「ボタンって服のボタン? 」
マスターが自分のカーディガンのボタンを指している。

「そうなんですけど、学生服に付いているブロンズのボタンです」
「ブロンズのボタンが一つって、えっ、彼のギャグとか? 」
私もカイ君と同じことを思った。でも彼は本気だった。

「正直、好きな人からもらう誕生日プレゼントなんて何でもよくて。あ、何でもいいわけじゃないか。でも基本は値段なんて関係ない。だから別にボタン一つでも良かった」
「何かあったな」
カイ君は興味津々だ。マスターは黙って聞いてくれている。

「彼、私の大事にしているボタンをジュエリーボックスで見つけてね」
「大事にしているボタンって? 」

「私、高校で陸上部だったんだけど、そこに憧れの先輩がいたの。その人が卒業式にくれた学生服のボタン」
「学生服のボタン? 」とカイ君が不思議そう顔をした。そりゃそうだ。日本で中高を過ごしていないんだから、学生服のボタン、と言われてもピンと来ないよね。

「日本の中高の卒業式ではな、好きな人の学生服の第二ボタンをもらう、もしくは好きな子に第二ボタンを渡すっていう、青春イベントがあんねん」ピンと来たであろうマスターが答えてくれた。

「せいしゅん? 」
カイ君は日本語は上手だけど、日本で学校に通っていたわけじゃないから、たまに知ってそうな言葉を知らないことがある。それなのに、天馬行空てんばこうくうとか融通無碍ゆうづうむげとかいう私が知らない難しい四字熟語を知っている。調べてみたら、どっちも「自由」を意味するものだった。うん、自由を愛する男。

「青春ってのは”young and free”みたいな感じや。”youth”のめっちゃええ時期」

ガリ、とカイ君が言った。いや、実際には”Got it(分かった)”だ。いつも、ガリに聞こえる。

「っで、なんで第二ボタン? 」カイ君が未だ困った顔をしている。

「私も気になって調べたことがあるの。昔の映画でね、戦地に出向く彼が想い人に、自分の代わりだと思ってという意味で、第二ボタンを渡したっていうシーンがあるらしいんだ。しかも当時は物資がないから、学生服で出陣したっていうのね。見たことない映画だけど、現実にもそんな状況があったかもなんて思うと、泣けると思わない? 」

自分で話しながら泣きそうになる。
ズルっと鼻をすする音が聞こえたかと思ったらマスターが泣いていた。
「その話が広まって、そこから第二ボタンは『いちばん大切な人』って意味が込められているみたい」

「でも、第二ボタンって一つしかないでしょ? 」
カイ君、いいところをつく。

「そうなの。その先輩は人気者でさ、ハードルが高かったぁ。しかもうちはブレザーだったから、前に二つしかボタンが付いてないの。私がもらいに行こうとした時には先輩の前のボタンも袖のボタンも全部なかった」

「でも貰えたんやん……なぁ」
鼻をかみながらマスターが聞いてきた。
「はい。私が行くと、先輩がブレザーの内ポケットからボタンを出して渡してくれたんです」
「それはどこのボタン? 」
カイ君がまた困惑している。

「ブレザーの内側についていた予備のボタン。
それを先輩が私に渡す時にね、『菜奈、迷ったら一旦そこから離れろ。そうすることで意外な近道が見つかったりするから』なんて言ってくれて、頭ポンポンしてくれたんだよね」

「惚れてまうやろー」
マスターが入り口に向かって叫んだから、びくっとなった。でも、分かる。私も惚れた中のひとり。

「っで、リングケースの話は? 」カイ君がカウンター越しに前のめりになる。
そうだった、つい先輩の話に酔いしれて言い忘れてしまうところだった。

「その陸上部の先輩の話を彼に話したことがあってね。って言っても付き合う前。でも、彼はその先輩の話を覚えていたの。そして、リングケースの中に、その先輩のボタンを入れたの」
「え、何のために? 怖い」
カイ君の眉間に皺がよった。

「彼がね、リングケースに入ったその先輩のボタンを見る私に向かってこう言ったの」

『僕がその先輩よりももっと菜奈のことを愛してみせるからーっ』

「彼は何かを伝えたかったんやろうけど……」
マスターが真剣に考えている、あの考えている風の姿勢をとりながら。
「ただ言いたかっただけ、らしいです」
「不器用やったんかもな、彼は。でも、菜奈ちゃんのことを愛してたんよ」
「その時にね、私、彼を先輩と比較してしまったんです、無意識に」
「つまり、”私の理想の恋人”というイデアがそこにあったんだろうなって」

「わっ、イデアの話に戻ってきた」マスターが嬉しそうだ。
「一応、ちゃんと話には一貫性をもって話してるつもりです、毎度」
「じゃぁ、その彼とはどうなったんですか? 」
「結婚した」

二人の雄叫びが重なる。 

「ってか菜奈さん、既婚者」
カイ君の声が上擦った。
「それも違う、バツイチ。でも三年間は彼と過ごしたから」

二人の阿鼻叫喚が喫茶にこだました。

「あと五分でオープンですよー」
飲み干したコーヒーをシンクに置く。
「なんや、深呼吸せな、無理やわ」
「何が正解か分からないような映画を見させられた気分」
「とにかく、彼は空気読めないところはあったけど、良い人だったの。けどね、結婚って、色んなことを話し合わないといけないの。互いの働き方、子供のこと、親のこと、マイホームのこととか、もう色々なの。それをね、熱い想いでごまかす、なんて無理な話なの。というか、マイホームの話になった時も、マイホームなんて要らないって言って、菜奈と過ごせたらキャンピングカーでもいいとか言うような人。それを本気でしちゃう人」
「僕も自由が好きだけど、帰る家は欲しい。ちゃんと地面に建ってる家が」
カイ君が頷きながら言う。そしてマスターはひたすら考えている。
「キャンピングカーって発想がツボやわ」
変なとこでウケている。

あの時、イデアを知っていたら、結婚生活ももっと上手くいったかも知れない。

カイ君がまころんを並べた。

丸くて小さくてカワイイお菓子。

今度は先輩の学生服のボタンに見えてきた。

こうやって、私たちは何かに何かを重ねて、
独自のイデアを完成させていくのだろうな。

でも、マイホームがキャンピングカーはないな、やっぱり。  

菜奈のひとりごと•二篇 完

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