たくさん
私が暮らしの中で楽しんでいるネイチャーゲームは1979年にアメリカのナチュラリスト、ジョセフ・コーネル氏により発表され、直接的な自然体験を通して自分を自然の一部ととらえ、生きることのよろこびと自然から得た感動を共有することによって、自らの行動を内側から変化させ、心豊かな生活を送るという「シェアリングネイチャー」の思想がある。私の体験を綴っていく。
私が暮らしの中で楽しんでいる活動は、ネイチャーゲームと呼ばれるアクティビティだ。そして、そのアクティビティを通じて、人々を自然へと誘う仲間を「自然案内人」と私の仲間達はお互いに呼んでいる。ネイチャーゲームは、1979年にアメリカのナチュラリスト、ジョセフ・コーネル氏により発表され、その背景には、直接的な自然体験を通して自分を自然の一部ととらえ、生きることのよろこびと自然から得た感動を共有することによって、自らの行動を内側から変化させ、心豊かな生活を送るという「シェアリングネ
こうして自分の暮らしを振り返ってみると、私は、自然を感じ、そこから見えないつながりを空想し、ただ楽しんでいるだけのように思える。でも、それが私の心を温かくし、周りのものと共に生きている充足感を与えてくれる。 私は、感じることで、想っている。空想は、想いだ。自然が与えてくれるその想いは、共に生きることを喜ぶ、良き想いだ。だからこそ、心が温かくなる。 私の想いはどこからやって来るのか。それは、自然を心から感じた時の言いようのない安心感だ。おだやかで、やすらかで、そして、多
飯山は、11月下旬になると虹の里となる。 秋と冬とのせめぎ合いが始まる。北から関田山脈を越え、冬の空気を孕んだ黒い雲が冷たい時雨を運んでくる。すると秋の空気がそれを押しとどめようと南から日差しを浴びせる。その境目が飯山の空を押しつ戻りつ、する。時雨が天気雨になり、虹が架かるのだ。市内のあちらこちらに虹が架かる。11月下旬には、何度も虹が現れるような日が週に何日もあるのだ。 飯山とその近隣の「みゆき野」と称される地域には野沢温泉をはじめ良い温泉が数々ある。虹の里となる時
秋、周囲の田んぼの稲刈りが終わると、里には無事に収穫できたことへの安堵感が広がる。しかし、それも霙が降り始めて冬の準備が始まるまでのつかの間のことだ。人々は秋を忙しく働いているはずなのだが、なせだか里には「ほっ」とした空気が感じられる。人々の心にある「安堵」が共感として満ちているせいだろうか。それとも秋の忙しさは、そもそも充実したものだからだろうか。この時期、晴天が続き、山からは恵みとして里へ茸が届き始める。 庭の楓が紅葉し始め、抜けるような青空に映える日、私はカヤの平
我が家にはスロープになっている芝の庭がある。私は、夜、そこに寝転んで星空を見上げるのが好きだ。 それは大概、飲んで帰った時だ。酔っ払っていると夏でも蚊が気にならなかったり、星空が澄む秋も寒さが気にならないからだ。「気持ちがいいぞ」と誘っても、家族は、「やれやれ、」と思っている。 星空を見上げながら、いつも「自分は地球に寝転んでいる」と思うようにしている。 背中にあるのは地球。 そう思うと、星空、宇宙に浮かんでいる地球がゆっくりと回っているのが感じられる。(気がする
自然の本当の姿を見たことはあるだろうか。 あなたが見ているものは本物だろうか。本当の色をしているだろうか。 あなたが見ているものは、本当の姿ではなく、あなたの心が見せているものなのかもしれない。 何も思い浮かんでいない心、裸の心になることは、難しい。と言うよりも心は、ころころと姿を変える。周りの自然もその度に違って見えている。心が忙しくコロコロと動いている時には、あなたは周りの自然に気づきもしない。自然はあなたの周りからその姿を消してしまう。 心は先入観となってあなたに
それは冬の上州に風が吹いている日のことだった。 雪国暮らしの私は、ある企業に研修講座を頼まれ、群馬県の冬枯れの森へ出かけていた。気持ち良く晴れたその日は、上州名物の「空っ風」が、すっかり葉を落としたクヌギの森を大きく揺らしながら吹いていた。 真冬の季節風だ。 青く抜ける空を背景に揺れる木々を眺めながら、「飯山は、きっとすごく雪が降っているんだろうなぁ。」と溜息がでる。 シベリアから吹き出した風は、日本海を渡りながら、たっぷりと水蒸気を含み、信越の山を越える時にそれ
森や山を歩くとたくさんの「なぜ?」「どうして?」に出会う。海や川で遊ぶ人も、きっと同じようにたくさんの不思議に出会うだろう。自然の中には楽しい不思議がいっぱいだ。 その不思議について専門の研究者に尋ねれば「なるほど!」と思う自然の摂理を解き明かしてくれ、その仕組みにあなたは感心するだろう。専門家がいなくても、自分で図鑑を調べたり、インターネットで検索するだけで自然の素晴らしい叡智が立ち現れる。そしてさらに、生き物たちの理に適った生態に驚きながら、その生態がなぜ、どうやっ
「あなたは生きていますか?」 そんなふうに問いかけられたら、あなたならどうやってそれを確かめますか? 自分は、日々ちゃんと生きているだろうか? 毎日を充実して過ごしているだろうか? 自分は、今ちゃんと生きていると言えるのだろうか? まじめなあなたなら、そんなふうに哲学的に考え始めてしまうかもしれません。ちょっと肩の力を抜いてみよう。 「あなたは生きていますか?」 生物学的に、「生きている」か、どうかをたずねられたら。あなたは、どうやって確かめますか? 初夏の朝、日
ある夜、早めに休んだせいか午前三時頃に目が覚めた。 「ほーほー・・ごろすけほーほー・・ほーほー・・ごろすけほーほー」 フクロウだ! 近くでフクロウが、啼いている! 「ほーほー・・ごろすけほーほー・・」 低くてやわらかい声は、遠くからでも聞こえる。 でも、今夜の声の主は、とても近い。 家の中でもはっきりと聞こえる。 「ほーほー・・ごろすけほーほー・・」 なんとも心が安らぐ声だ。温かい布団の中で聞いていると優しい子守歌のようだ。でも、この声におびえている
里山は、一見すると「何もない」ように見える。でも眺めていて厭きることのない風景ばかりだ。 何もないように見えても、山に行けば美しいブナの森はあるし、山の中腹から眺めれば美しい棚田も見える。でも、見厭きない理由は、そこに何かが見えているから、ではないのかもしれない。 いくら眺めても厭きの来ない自然風景には、二種類ある。 ネパールに行き、ヒマラヤの山並みを目の前にした時もそうだったが、圧倒されるような自然風景は呆然と眺めながら、見厭きることがない。それは人知を越えた存在
動物達との出逢いは、森の中だけではなかった。 それは、地球上で最も繁栄している哺乳類との出逢いだ。 その生き物は、もちろん里山にもいる。なんと我が家に棲み着いたこともある。野生の哺乳類が人が住む家に棲み着いたらどうなるのか。ちょっと楽しいことになるのだ。 ある日暮れ時。 まだ電気を点け忘れている我が家の暗い廊下。その薄暗闇の中で黒いものが点滅している。薄墨の空間に、真っ黒い物が、現れては消えるのだ。 目を凝らすと黒いそれは、ひらり、ひらり、と空中を飛び回っている
あなたは.森の中で動物に出会ったことがありますか? 動物たちとの出逢いは、いつもドキドキさせてくれて、後になって心がほっこりと温かくなっていることに気づかされる。 雪がまだ残る春の清里の森で、ブルーシート一枚と寝袋とビスケット数枚だけを持って、24時間を過ごしたときのことだ。それはナチュラリストの端くれになるための訓練だった。 秋に葉を落として裸になった落葉樹の森は、明るい。林床は一面の雪が陽を反射して光にあふれている。 ミズナラが倒れ、空が大きく開いて一際明る
今、窓の外では、雪が、ゆらぎながら、静かに舞い落ちている。 やさしい雪だ。春はもうすぐ、そこに来ている。 深い雪の中でやがて来る季節を想ってみる。 やがて来る季節。 畔にはオオイヌノフグリが、咲いている。 ブナの森から吹いてくる風が柔らかい稲の絨毯を渡っていく。 山鳩が、鳴いている。 そこに私も、いる。 里と山。 人の暮らしと自然の営みが滲むように混ざり合い、そこに境目はない。 深く息をする。 私を包むまわりが私の体の隅々へとしみわたる。 そして私は吐く息とともに
私が暮らしの中で楽しんでいる活動は、ネイチャーゲームと呼ばれるアクティビティだ。そして、そのアクティビティを通じて、人々を自然へと誘う仲間を「自然案内人」と私の仲間達はお互いに呼んでいる。ネイチャーゲームは、1979年にアメリカのナチュラリスト、ジョセフ・コーネル氏により発表され、その背景には、直接的な自然体験を通して自分を自然の一部ととらえ、生きることのよろこびと自然から得た感動を共有することによって、自らの行動を内側から変化させ、心豊かな生活を送るという「シェアリングネイ