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「『気づき』のある暮らし」/《サイレントウォーク》


 飯山は、11月下旬になると虹の里となる。

 秋と冬とのせめぎ合いが始まる。北から関田山脈を越え、冬の空気を孕んだ黒い雲が冷たい時雨を運んでくる。すると秋の空気がそれを押しとどめようと南から日差しを浴びせる。その境目が飯山の空を押しつ戻りつ、する。時雨が天気雨になり、虹が架かるのだ。市内のあちらこちらに虹が架かる。11月下旬には、何度も虹が現れるような日が週に何日もあるのだ。
 飯山とその近隣の「みゆき野」と称される地域には野沢温泉をはじめ良い温泉が数々ある。虹の里となる時期は、肌寒くなり長湯が気持ちいい季節だ。露天風呂から虹を眺める幸運は、決して低い確率ではないと思う。北陸新幹線も開通した。いっそ虹予報を出したら晩秋の観光資源になると思うのだが。

 虹は美しい。しかし、長い雪の季節が近づきつつある日々は、正直、憂鬱だ。雪が積もってしまえば、あきらめにも似た割り切った気持ちへ切り替えることが出来るのだが、霙交じりの陰鬱な空が続くと雪が降らない地方がうらやましく思えて仕方がなくなる。
 しかし、逝く秋は、寒気に負け続けではない。春先が三寒四温ならば、冬の始まりは三温四寒。秋と冬の空気が交互に訪れ、次第に寒さを増し、ある日、雪が降り、すっかり冬へと入れ替わる。そんな移ろいの日々の中に、秋の勢力が最後の力をふりしぼり寒気を押し戻し、気持ち良く晴れる麗らかな日がある。そんな日に私は、気持ちの整理を付けておくようにする。秋を確かめ、冬を迎える心の準備だ。

 小春日和。秋がぐんと季節を押し戻したポカポカ陽気の日。
 庭の柿の木もすっかり葉を落とし、たわわに実った橙色の柿が、一際、青空に映える。我が家の柿の実は、収穫されずに冬の間の鳥たちの餌になる。庭木は冬囲いを終えている。近所では野沢菜の漬け込みが最盛期だ。
 
 今日は、妻を誘って散歩に出よう。でも誘いは、断られるだろう。我が家でもお菜洗いをしなければならない。畑の大根だって雪が降る前に抜いて、洗って干さなければ。女衆は秋も忙しい。まして、何をするにも最適な暖かい日だ。私も秋の作業を手伝うために、妻に朝から全ての段取りは聞いている。

「・・だめ?」
「・・・・・お昼までね。」

彼女の中で段取りがついたのか、優先順位が変わったのか、デートのお誘いに了解が出た!

 お散歩コースは、毎朝、私がポールを使って歩くノルディックウォーキングの散歩ルートだ。たまに妻も一緒に歩くこともあるが、その時はお互いのペースで歩くので、結局、別々に歩くことになる。
 見通しの良いたんぼ道。夫婦のデートがご近所にまるわかりだ。田舎では珍しい、ちょっとはずかしい光景ではある。だから、普段はちょっと早足になってしまうのかもしれない。
 今日は、並んでゆっくりと同じペースで歩く。秋の陽をお供にして。
 こどもたちのことや妻の実家のこと、友達のことなど、とりとめもなく話しがはずむ。
 
 堤防の登り口まで来た。ここからは、ちょっと趣向を変えて歩くことにする。ルールは、言葉を発しないこと。夫婦の話は、いつでもできる。折角の秋の最後の散歩だ、足下や周りの風景も味わって歩こう。
「妻の話は、良く聞きなさい。ちゃんと聞きなさい。」よく教えられることだが、聞くというのは、難しい。こっちも話せるせいだ。ついつい、自分の考えを頭でこねくりだして、なかなか相手の話を聞けない。しかし、言葉を発することが出来ないというルールのお陰で、しゃべることを考えなくなると、心の受信モードのスイッチが入る。
 相手も同じ。するとどうだろう。さっきまで二人で話していた時には気がつかなかった周りの音が聞こえ始め、足下の草が、空の雲が、周りの山々が見え始める。さっきまでも聞こえていたはずだし、見えていたはずのものが、いろいろ聞こえ、見えてくる。
 道端に二人でしゃがみ込み、見つけたものを一緒に見つめる。伝えたい気持ちは、妻の眼を見て伝えてみる。でも、首を傾げる妻。
 一緒に見ても伝わらない気持ちは、同じ物を触って確かめてみる。私が触る。妻も触る。「ね。」と無言で首を傾げて確認する。首を小さくすくめて「にっ」と笑って返す妻。何気ない気持ちを確認するときに良くする仕草だ。同じ事を感じたみたいだ。

 また歩き出す。今度は、妻が遠くを指さす。その指さす先を見つめてみる。何を伝えたいのか、なんとなくわかる。感じていることは微妙に違うかもしれないが、同じ物を見て、「いいね」と思っている。
 そんなことを繰り返していると、今、「同じ場所に一緒にいる」ということを互いに改めて感じているようになる。それが、なんだか「うれしい」気分になっている。

 周囲の自然と共に、二人で一緒に歩いている。そして、それが、喜びへと通じている。平和な、散歩。なんだか、素敵な二人。
 二人だけの散歩もいいけれど、子ども達も一緒だったら、もっと素敵だろうな。そして、家族だけじゃなく、いろいろな壁を越えて、もっとたくさんの人ともこの気分を共に味わいたい。言葉を発しないルールだけれど、この山里に暮らす全ての人に、生き物たちに、呼びかけたい気分だ。「おーい!」って。

 そこにいる全ての者が、互いを、周囲の全てを受け入れ、そこに共にいることに喜びを感じている。そんな世界は、愛と平和に満ちあふれている。

 私には、繰り返し思い出す情景がある。それは、小さな池を囲んだ公園だった。私と参加者は、言葉を発しないルールで、その場所を散策していた。そこには、アヒルが遊び、私たちとは別の、小さな子ども連れの他の家族もたくさんいた。私は、池越しに見た光景を今でも在り在りと思い浮かべる。
 無言の散歩を楽しんだ参加者達が池の周りの芝生を静かに歩いている。その足下で、よちよち歩きのこどもが、アヒルを追いかけている。それを大人達がおだやかに微笑みを湛えて眺めている。愛くるしい子どもの仕草に、大人が目を合わせて静かに笑い合っている。そこへまた静かに微笑みながら歩み寄る者たち。スローモーションのサイレント映画のように、人の輪が溶けあう。
「天国みたいだ・・」思わずつぶやく私の瞳から、涙があふれた。平和で、おだやかで、愛にみたされた世界。それをつくりだせることに、それをわかちあえることに、私の心は、深く気づき、めざめ、感動していた。

 愛と平和。それは、人の心に現れては、消えていく。しかし、一度それを心に抱いた者は、必ずそこへ帰ってくる。私は、そう思う。
 自然を感じ、自分と自然とのつながりを意識する生き方。そして、自然と共に生きることで生まれる平安と命を慈しむ心。私は、自分の心の中のその小さな芽生えに、暮らしの中でせっせと水を遣り続けている。そして、周りの人の心の中にも、その種を蒔くことができるといいなと思っている。もし、芽が出たとしたら、それに水を遣り続けて下さい、という願いと共に。

 妻は、それを支えてくれている。私のこどもたちにも、それぞれ小さな芽が育っている。家族は、皆、それぞれの方法で小さな芽に水を遣り続け、生きている。そして、それぞれに種まきをする人になっていくだろう。

 妻と二人で、静かに、歩いて行く。気がつけば、仲間が増えている。笑顔を交わし、自然と共に生きる喜びを確かめて、うなずき合える。私は、理想に向かって歩いている。

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