「『気づき』のある暮らし」/《風と話そう》
それは冬の上州に風が吹いている日のことだった。
雪国暮らしの私は、ある企業に研修講座を頼まれ、群馬県の冬枯れの森へ出かけていた。気持ち良く晴れたその日は、上州名物の「空っ風」が、すっかり葉を落としたクヌギの森を大きく揺らしながら吹いていた。
真冬の季節風だ。
青く抜ける空を背景に揺れる木々を眺めながら、「飯山は、きっとすごく雪が降っているんだろうなぁ。」と溜息がでる。
シベリアから吹き出した風は、日本海を渡りながら、たっぷりと水蒸気を含み、信越の山を越える時にそれを雪に変えてすっかり残さず吐き出す。そして、カラッカラに乾いた風となって上州に吹き下ろしているのだ。ビュービューと音を立てて空っ風が木を揺らしているということは、山の向こうではたくさん雪が降っているのだ。
やれやれ。と思いながらも風がいろいろなものを作りだしていることに、ふと気がついた。私の住む雪国の風景は、風が雪を運んで来るからだし、自分が今、気持ち良く過ごしている冬枯れの森も、乾いた風が、カラカラに乾かしてくれたからだ。
そして風は、冷たく肌で感じる以外にも、ビュービューと音にも聞こえ、そして良く「見える」ものだとも気づいた。風は、木の枝を揺らしながら森を渡っていく。林床の笹原を揺らして行く。それは風が塊になって、うねるように転げていく。森の小道を渦を巻いて落ち葉をくるくると回していく。
思い起こせば、夏は田の面を猫バスが飛び去る様に風の固まりが渡っていく。秋の高い空には、刷毛で掃いたように風が雲を描いていく。
風は、匂いも運んでくる。春には沈丁花、秋には金木犀。私は、晩秋の風に「雪の匂い」を感じる時もある。
風が運ぶのは匂いだけではない。吹雪のように花びらを運び、タンポポの綿毛を飛ばし、蜘蛛は糸に風を孕んでそれに乗って遠く旅する。初夏には南西諸島からアサギマダラが信州の高山まで風に乗ってやってくる。
風は旅をしている。ずっと遠くから遙か彼方まで。
風を感じながら風を眺めて空想を拡げると、自分の身の回りと遠い地球のどこかが風でつながっていることがありありとわかり、楽しい気分になってきた。
私は、風が抜ける丘を下り、窪地の陽だまりをみつけて腰を下ろした。見上げると、頭上のクヌギの枝を大きく揺らして風が渡っているが、その風は直接、私に吹き付けることはない。しかし、近くの笹がいつも風に揺れている。風には通り道があるみたいだ。時折、通り道を逸れた気まぐれな風が、私の頬を撫でる。
その風に尋ねてみる。
あなたは、どこから来たの?
すると尋ねられた風は、日本海の上に筋雲となって、荒れる海を見おろしていたときのことを思い出した。そして、その風はさらに記憶をたどり始める。
「・・・確か、ウラジオストックという港町から海へ出たのさ。その前は、・・・」
「最初の記憶は、アムール川の上流、中国で黒竜江と呼ばれる川の辺りさ。寒すぎて、じっとしてたよ。川も白く凍って、じっとしてたさ。小さな女の子が、ホッと真っ白な息を吐いたとき、私は動き始めた。」
あんなにたくさんの雪を運んでいた時は、さぞ重かっただろ?
「うん。あんなにフワフワのくせに、けっこう重いよ。でも雪になる前の水の粒達は、いろんな話しを聞かせてくれたよ。海の魚たちの話しやこれから旅する森や川の話しを。私から旅立つときには、綺麗な結晶になってうれしそうに地上へ舞い降りて行ったよ。」
これから、どこへ行くのさ?
「太平洋さ。小笠原の海をめざすんだ。その頃には、すっかり私もぬくぬくとして、・・そうだ!クジラが吐き上げる潮を吹き飛ばしてやるんだ!」
私は、冬の空を渡っていく風を眺めながら、小笠原の海と、その上を渡る風を想像していた。冬の乾いた空気を吸いながら、太平洋から立ち昇るむせかえりそうな湿度を含んだ南の空気で肺をいっぱいにしていた。
日本海の向こうにある大陸の奥深くからやってきた風が、私の頭上を通り、やがて太平洋へと吹いていく。その空っ風は、ついには世界中を旅するのだろう。
ここにいる私や木々たちとは違って、風はひとつところに留まることはできない。その代わりに、地球上のどこへでも行ける。大気はこの地球を循環しているのだ。そして、寒気と暖気をまぜこぜにして私の住んでいるこの温帯を丁度良い気候にしてくれている。
私は、目の前の笹の葉を揺らす風を見つめながら、地球のいろいろなところを吹いている風を想っていた。
マナヅルと一緒にヒマラヤの嶺を越えていく風。
昼寝をするライオンのヒゲをくすぐるアフリカの風。
海からあがったペンギンの羽を乾かしているパタゴニアの風。
今、私の頬をなでていく風は、冷たくて乾いている。同じように今、世界中で吹いている風は、どんな風だろう。そして、どんな花を揺らし、どんな香りを運び、どんな葉をそよがせているのだろう。どんな、生き物がその風を感じているのだろう。
私は、風に想いを寄せることで、同じ地球に生きる多くの命と同じ空気を吸っているのだ、という当たり前のことに思い至った。そして、風が地球の息吹そのものであると思えてきた。
呼吸をしている、生きている地球を感じた。
私は、冬の青空を見上げながら、深呼吸をしてみた。地球と一緒に呼吸をする気分で。それは、とても爽やかで、身も心も満たしてくれた。言いようのない気持ちで胸がいっぱいになった。
私は、あの日から時々こうやって風と話しをしてみる。
風よ、どこから来たんだい?
風よ、何を見てきたんだい?
君は、どんなものを運んだの?
君は、これからどこへ行くの?
風は、いろいろな話しを聞かせてくれる。
風は、この地球のどこでも吹いていて、世界中を旅している。
私は里山にいて、風にこの世界の物語を聞く。
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