『ザ・ホエール』/あと数歩だけ光の方に
“ひきこもり”と“過食”の映画
COVID-19で自宅療養した昨夏、最初は久々の長期休暇!などと考えていたが隔離期間が1週間を過ぎると無性に寂しさが募った。映画やアニメを楽しんでいたはずが、世界から隔絶された気分に陥った。部屋に閉じこもり、生のコミュニケーションを断つことは相当の忍耐が必要であり、"ひきこもり"は覚悟がなければ成立しないことを実感した経験だった。そして、それほどの苦痛を越えてでもひきこもる人々が世界中に多くいる事実に改めて驚いた。
映画『ザ・ホエール』には272kgの体重を抱えた孤独な中年男性・チャーリー(ブレンダン・フレイザー)が主人公だ。8年前に妻子を見捨てて同性の恋人との仲を選んだが、その恋人が亡くなった喪失感と罪悪感から部屋にひきこもり、過食を繰り返してきた。身体症状は悪化しているが治療は望まず、かといって苦痛をそのままには出来ず悶え、死と生への欲動が両極端に振れつづけている。暗い部屋の中、重く苦しいシーンが大半を占める作品である。
元々チャーリーは穏やかでファニーな人物であるというのがその苦しさをより際立てる。家族を裏切った後悔と恋人を亡くした喪失感が彼を変えた。"社会規範"や"一般常識"に反し、家族を捨て恋人を選んだ自分を罰するように引きこもり部屋に光を入れさせない。恋人や家族にまつわる苦しみから思考を遠ざけるために過食に走り、その肉で身も心も防衛しきる。世界を憎んでしまう前に、世界から自分自身を切り離すような痛ましい覚悟が垣間見える。
精神科医・斎藤環の著書『ひきこもりはなぜ「治る」のか』と照らし合わせると、チャーリーの引きこもりは特殊なケースだ。友人の看護師1人とはいえ他者との繋がりは保てているし、オンライン講師として社会生活を営んでいる。過食行為や治療の拒否で自傷を繰り返すが、他者をあえて傷つけようとはしない。世界を生きる上での不安や恐れから引きこもっているが、世界を呪うことなく徹底して自罰的であり続ける珍しい“ひきこもり”なのだ。
自分の“白鯨”と向き合う
医療のみならず、宗教という救済も届かないチャーリーだが、娘の未来を想う気持ちが最期に沸き起こる。この姿を独りよがりで身勝手な人物思ってしまう気持ちも避けられない。しかし時に折り合いのつかない混沌を抱えるのも人間であるのは間違いない。誰しもが"どうにもならなさ"に沈むことはあるのだ。そしてチャーリーは死期が迫る状況に至って、その"どうにもならなさ"を抱えたまま、娘エリー(セイディー・シンク)と向き合おうとしていく。
8歳で自分を捨てた父親に対し、エリーは怒りを露わにする。その怒りは周囲へと及び、周りの大人たちはエリーを"難しい子"とみなす。しかしその怒りは本来、父だけに向けられるべきだとチャーリーは自らを差し出し、娘の荒んだ心と澄んだ感性を肯定する。ハーマン・メルヴィル「白鯨」をモチーフとしながら、エリーの"怒り"に迫っていくチャーリーの姿は、贖罪をとうに超越していた。人生と肉体の全てをもって身体的な言葉を紡いでいた。
"人生における憎むべき対象"、"しかし憎んでもどうにもならないもの"のメタファーとして白鯨は扱われる。エリーにとっての白鯨もそうだが、チャーリーにとっての白鯨もまたいつしかチャーリー自身になった、と言えるだろう。自分を追い込み殺そうとするほどに過食するが、対象が自分であるからこそ、それを果たそうとする中で苦痛がチャーリーの肉体を生きながらにしてここまで追い詰めた。自らの”白鯨"を自らの中に持つことの苦しみだ。
自罰や自傷が”どうにもならないこと"と気づいていたのなら、、と頭を抱えてしまうが彼はそうすることでしか自らの罪と向き合えなかった。辛く、泥臭い事実だ。しかし同時に、最後にあと数歩だけ光の方に歩める人間の可能性も示してくれる。『ザ・ホエール』はエリーのような若い世代には勿論のこと、世界を呪い、心を閉ざし、自らを傷つける程のストレスを抱えた多くの人々が“自分にとっての白鯨”を知ることのできる映画なのではないか。
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